-259-論文現代的租税システムの構築とその挫折~高橋財政期における租税政策の限界~井手英策*(横浜国立大学大学院国際社会科学研究科助教授)1.問題の焦点近年,景気の回復傾向が力強さを増す一方で,財政支出削減論と消費税増税論とがせめぎ合いを見せながら財政再建論議が高まりつつある。本稿は,このような現状を念頭に,システム転換期の租税政策,とくに,長期停滞の脱出過程における税制改革のあり方とその限界を歴史的視点から分析することを課題としている。わが国の昭和恐慌からの脱出過程において,大規模なスペンディングポリシーが行われた事実は広く知られている。この点に関して,金本位制度の停止と管理通貨制度への事実上の移行,弾力的な通貨制度改革と新規国債の日銀引受発行(以下,日銀引受)の開始,フィスカルポリシーによる農村救済と景気回復,これら一連の政策展開を中心に膨大な研究が積みあげられてきた1)。また,近年,その成功を念頭に,日銀引受による財政金融政策が政策レジームや市場期待を大胆に変化させ,デフレ経済からの脱却に寄与した可能性が指摘され,当時の政策の現代的な意義を問う研究も増えている2)。このように,高橋財政の研究は,質・量ともに圧倒的な水準にあるといえる。しかしながら,積極的なスペンディングと恐慌からの回復過程に問題関心が集中する一方,景気回復後の財政健全化を実現するための手段,とくに租税政策については,あまり分析が行われて来なかったのが現状である3)。その理由のひとつとしては,高橋の在任期間(1931年12月~36年2月)において,財政支出の積極拡大の一方で,大規模な増税が行われなかったことがあげられる。とりわけ,高橋財政と並び称されるニューディール財政では,ルーズベルト大統領が均衡財政,増税にかなりの段階まで固執したこともあり(井手[2004]),高橋財政の非増税主義を基調とする積極政策はケインズ政策のさきがけとしての評価をより高めることとなったのである。以上の意味では,高橋財政期の租税政策を検討することは,それ自体,研究史の空白を埋めることを意味している。しかし,ケインズ政策の再評価,それとは反対に,政治過程における各主体の合理的選択が過大な予算計上をもたらすという公共選択論の伝統的な批判,両者を踏まえつつ一歩進めて当該期の租税政策を検討すると,以下の2つの論点が浮上することとなる。まずは,ケインズ政策としての高橋財政の再定義の必要性である。周知のように,ケインズはスペンデ*1972年生まれ。2000年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。日本銀行金融研究所,東北学院大学経済学部を経て現職。1)基本的な文献としては,日本銀行調査局[1970]大蔵省昭和財政史編集室[1965]などがある。昀近の研究史に限定しても,中村[1981],原[1981],三和[1979=2003][1980=2003]などの日本経済史研究,島[1983],永廣[1991],井手[1998],武田[2000]などの財政史,金融史研究が存在する。2)Cargill[2000],岡田=安達=岩田[2002],岩田[2004]など。3)その数少ない例として神野[1979][1987],迎[2000]があるが,いずれも高橋財政期の租税政策そのものを対象としたものではない。会計検査研究№33(2006.3)-260-ィングポリシーによる有効需要の創出を主張したが,それと同時に,財政政策に対する抑制的な考え方を有していた側面が近年指摘されている。たとえば,公共投資による財政赤字を削減すべく,所得と税収を増大させる必要性が念頭に置かれ乗数効果が位置づけられていたこと(玉井[1999:197]),予算制度に関して通常(経常)予算,資本予算からなるいわゆる二重予算を主張し,前者の厳密な均衡維持が強調されていたことなどを指摘した研究がその例である(小峯[2003:17])。このようなケインズ再評価の妥当性はそれ自体が考察されるべき対象であるが,その点はひとまず措いておくとしても,中長期的な財政均衡を前提とする限りにおいて短期的な財政支出の増大が正当化されるという見方は,その後の補整的財政政策論によって明示化され,今日の財政論者においても広く受け入れられてきた4)。景気回復局面での税収増を可能とするカウンターシクリカルな租税制度を「現代的な租税システム」とここでは呼ぶとすると,ケインジアンポリシーとしての高橋財政を評価するためには,財政出動による景気回復のみではなく,景気の回復局面において豊富な税収をもたらしうるような税制の確立の成否も含めて検討する必要が生じてくる5)。もうひとつは,ケインズは死んだ,といわれる今日の文脈から見た,高橋財政期の租税政策の位置づけである。高橋財政期においては,抜本的な税制改革がたびたび俎上にのせられたが,結局,臨時的な小規模の増税が実施されたに過ぎなかった。いまさら繰り返すまでもなく,Buchanan=Wagner[1977=1979]による画期的な問題提起以降,公共選択論では,ハーヴェイロードの前提あるいは財政錯覚の批判を通じて,景気回復局面での増税の困難さが再三指摘されてきた。これらの批判を踏まえると,蔵相高橋是清の政策思想,大蔵省の制度設計,財界,金融界,市場参加者の政策要求,相互の関連のもとで,経済成長の果実を吸収しうる新たな租税制度がどのように構想され,どのようにその導入が挫折したのかが検討されなければならない。以上の問題提起をもとに,高橋財政期における租税政策を追いながら,システム転換期におけるわが国の増税政策の先進性と限界を明らかにしていくこととしたい。2.租税政策をめぐる対抗A)戦前型従量税体系とその限界まず,本論の理解の一助として,高橋財政の歴史的位置づけ,当時の租税政策の概要を簡単に説明しておく。犬養毅首相に請われ,6度目の大蔵大臣に就任した高橋是清は,1931年12月金本位制度の離脱を断行し,翌32年6月の発券制度改革を経て,わが国は事実上の管理通貨制度へと移行した。これら通貨発行の弾力化を背景に,高橋は新規国債の日銀引受による財源調達を行い,31年9月に勃発した満州事変の費用ならびに不況に苦しむ農村向けの公共事業の費用(時局匡救事業費)を大胆に予算計上した6)。こうして,恐慌の淵であえいでいた日本経済は見事に息を吹き返すのだが,さらに,景気の回復基調が鮮明にな4)補整的財政論に関してはHansen[1941=1950],今日の財政論者による整理としては井堀[2000:219]を参照せよ。5)ただし,以上にいう現代性に関しては2つの意味で限定が必要である。1つは,ケインズが財政政策に積極的に言及するのは1940年「戦費調達論」(Keynes[1940=1971])以降であり,資本課税,所得税の課税昀低限の設定,強度の累進税率の導入といった今日と類似した租税制度の導入がうたわれたのは,いわゆるケインジアンポリシーとは異なる文脈であったということである。いま1つは,大蔵官僚が初めてケインズ理論と接触したのは1934年頃といわれている(浅井[2000:209])。時期的には微妙であるが,本稿は大蔵官僚がケインズ理論を認識し,租税制度の現代化を意図的に実現しようとしたということを主張するものではない。中長期的な財政均衡を前提にすると論理的に求められる税制を示し,大蔵官僚の増税案がその基準から見てどのように評価できるのかを問おうとするものである。6)緊縮路線で名高い若槻内閣下の井上財政で作成された1932年度概算は歳出14億7990万3000円であり,高橋はこれに時局匡救費1億6321万6000円,満州事変費2億8850万円をそれぞれ追加計上した(大蔵省昭和財政史編集室編[1955:140])。当時は,世界的な潮流として均衡予算への執着が強かった時代である(Studenski&Krooss[1963],井手[2004])。にもかかわらず,財政赤字を許容し,積極的なスペンディングを行った点は,まさにフィスカルポリシーの先駆けとして高橋財政が面目を施したゆえんといえよう。現代的租税システムの構築とその挫折-261-ったと見て取るや,高橋は,国債発行の漸減,健全財政への回帰を唱導し,財政政策の一大転換をも試みる。これが,わが国の財政史上に名高い「高橋財政」である。しかし,1936年2.26事件で発せられた弾丸は老蔵相とともにわが国の健全財政の命をも葬り去り,軍靴が財政を蹂躙する時代へと突入していくことになる。以上の過程で改めて注意を喚起しておきたいのは,高橋の在任期間では,歴史的な積極財政が展開されたと同時に,緊縮政策への転換が試みられていたという事実である7)。じつは,高橋は,帝人事件による内閣総辞職を受け,いったん大蔵大臣の職を辞し,1934年7月藤井真信にその後任を託している。大蔵次官であった藤井の大臣就任は,大蔵省の健全財政路線に弾みをつけ,高橋の就任以来,省内でくすぶっていた増税論議は一気に活発化する。ところが,大臣就任直後,藤井は病魔に侵され,わずか4ヵ月後の11月には高橋の再登場が余儀なくされる。このような経緯の後に,藤井の在任時の置き土産として創設されたのが「臨時利得税」である。同税は,財政健全化という観点から行われた高橋財政期唯一の増税であり8),規模は3000万円程度のものであったが,そこには歴年にわたる大蔵省の省内論議,健全財政志向が凝縮されていた。同時に,これに対する猛烈ともいえる社会の反応は,景気の回復途上における増税の難しさを象徴するものであった。それでは,早速,租税の分析に入ろう。まず,高橋財政に前後する井上財政期(1929~31年)から馬場財政期(1936~37年)に至るまでの税収の動向を示した図表1を見てみよう。高橋財政が本格化する1932年は,昭和恐慌以降の税収のボトムに位置している。国税滞納者の増大振りに象徴されるように9),30年以降,直接税を中心に税収の落ち込みが著しく,そのことは大蔵省の財政運営に危機的な状況をもたらしていた。たとえば,井上財政期の31年度予算編成過程では,1億2000万円の経常収入減を当初より見込んでいたにもかかわらず,31年5月には早々に6000万円の減収見込みが明らかになった。その後,再三にわたる歳出節約案,官吏の減俸を決定・実施したが歳入減少予想額を埋められないという自体に直面している(大蔵省百年史編集室[1969:19])。かかる厳しい環境のもと,1931年11月,打ち続く減収を補うべく,井上蔵相は税制整理ならびに増税案の作成を大蔵省に命じている。その内容は,3ヶ年の臨時措置によって主として所得税の増徴が図られ,32年度3093万円,平年度4121万円の増収措置を予定したものだった(大蔵省昭和財政史編集室[1957:277ff.])10)。しかし,翌12月には若槻内閣が総辞職,犬養新内閣のもとで蔵相に就任した高橋は増税案の撤回と日銀引受に基づく大胆な財政出動を選択する。こうして景気の回復が次第に明らかになり,33年には税収も増勢を描くこととなるのである。続いて,同図表より当時の税制の特徴を確認しておこう。まずは,直間比率である。一目見れば明らかなように,高橋財政期には間接税収が直接税収を上回っていること,とりわけ,酒税と関税が税収の重要な位置を占めていたことが分かる。1932年度における直間7)国債発行の削減による財政健全化の過程を論じたものとしては井手[1998]を参照せよ。8)厳密には,1932年6月に関税の従量税率の引き上げが行われているが,これは,金本位制度からの離脱によって為替相場の下落が続くなか,輸入品の価格高騰が続き,従価税による税収と従量税によるそれとのバランスが崩れたことへの対応として行われた増税である。以上に関しては,大蔵省昭和財政史編集室[1957:286ff.]。当時の為替の低落は大胆なものであり,財政スペンディング以上に輸出