1人的資本が中国都市部の所得格差に与える影響:1988-2002*財務省財務総合政策研究所研究員馬欣欣[要旨]本稿では、教育水準、経験年数などから形成される人的資本が中国の都市部における所得格差に与える影響について、1988年、1995年、1999年と2002年の中国家計調査の個人票を用いて実証分析を行った。計量分析から得られた結論は以下の通りである。中国都市部の労働市場において、第1に、1988年から2002年にかけて経過年とともに教育の内部収益率が上昇した。第2に、1988年および1995年の場合、所得分位が高いほど教育の内部収益率が低くなるが、2002年の場合、教育の内部収益率の上昇は高所得層が低所得層より顕著である。第3に、1988年から2002年にかけて、人的資本の量、人的資本の収益率及び人的資本以外の要因はいずれも所得格差の拡大に影響を与えるが、人的資本以外の要因に比べ、人的資本要因が所得格差の変化に与える影響は大きい。第4に、人的資本が所得格差に与える影響において、男性の場合、教育の内部収益率の効果が大きく、女性の場合、経験年数のリターンの効果は大きい。分析結果により、中国都市部の所得格差を縮小するため、低所得層に対する教育援助は必要であり、教育水準別の公的教育投資の政策を検討すべきであることが示唆された。キーワード:中国都市部の所得格差人的資本教育の内部収益率分位点回帰分析所得分散の分解JMPモデルの分解2目次Ⅰはじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3Ⅱ先行研究のサーベイと仮説設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51.欧米の先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52.中国の先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63.作業仮説の設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7Ⅲ分析の枠組み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81.先行研究の限界と本稿の分析方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82.推定モデル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103.データと変数設定の説明・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134.データの観察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15Ⅳ計測結果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・201.時系列の教育の内部収益率に関する計測結果・・・・・・・・・・・・・・・202.所得分位別・教育の内部収益率に関する分位点回帰分析の結果・・・・・・・223.所得分散に関する要因分解の結果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・264.所得対数の格差に関する要因分解の結果・・・・・・・・・・・・・・・・・27Ⅴ結論と政策提言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31付図1~付図5・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・383Ⅰはじめに中国では、計画経済期を経て1978年以後、市場化の経済改革が進められた。経済の高成長の一方では、さまざまな問題が出現した。その中では、所得格差の拡大が昀も問題とされた(付図1、李2003、李・赵2006)1。現在の中国の所得格差は、合理的格差と非合理的格差の2つに分けられる2。経済発展と技術進歩に伴って、教育水準、経験年数などから形成される人的資本3のリターンが上昇し、これに起因する所得格差の拡大は、非合理的格差より、むしろ合理的格差といえるのであろう(馬2004)。このような2つの要因に応じて、採るべき政策も異なる。非合理的格差は戸籍制度などの制度要因による労働市場の分断化の問題に関連するため、戸籍制度の改革は必要である。一方、人的資本に基づく所得格差が技術進歩に伴う高学歴高技能者の不足に関わるため、公的教育投資の政策は重要であると考えられる。したがって、所得格差の問題を解決するため、政策立案の視点から、人的資本が所得格差に影響を与えることに関する実証分析は重要な課題になっている。人的資本が所得格差に与える影響4について、まず、欧米の労働市場を対象とした*本稿の内容はすべて執筆者の個人的見解であり、財務省あるいは財務総合政策研究所の公式見解ではない。本稿を作成するにあたり、北京師範大学李実教授、慶應義塾大学商学部清家篤教授、樋口美雄教授からご指導および貴重なご助言を頂いた。また、日本統計研究会で、慶應義塾大学赤林英夫助教授、一橋大学の神林龍助教授と川口大司助教授、お茶の水女子大学の永瀬伸子助教授に有益なコメントを頂いた。特に財務省の研究会で、財務省財務総合政策研究所の石井道遠所長、金森俊樹次長、研究部の田中修部長、麻生良文総括主任研究官、国際交流室の鵜田晋幸室長、湯山壮一郎係長からは、沢山の貴重なご助言を頂いた。上記の方々に深く感謝したい。残る誤りは全て筆者に帰する。1李(2003)、李・趙(2006)は市場経済期に所得格差が拡大する問題は深刻であることを指摘している。『中国統計年鑑』と『中国統計摘要』によれば、都市部のジニ係数は、1988年の0.170、1995年の0.295、1999年の0.227、2002年の0.295、2006年の0.312に上昇したことがわかった。また、羅・李・鄧(2006)は、都市部のジニ係数が、1978年の0.160から1995年の0.280、1999年の0.300、2001年の0.320に上昇したことを指摘している。2合理的格差とは、経済的要因(教育水準、経験年数、職業分布や産業構造などの要因)に基づく所得格差である。非合理的格差とは、経済的要因以外の要因(慣行・制度、政策法律など)に基づく所得格差である。3本稿の人的資本とは、Becker(1964)とMincer(1974)を嚆矢とする人的資本理論(humancapitaltheory)で定義されるものである。人的資本理論については、第Ⅱ節を参照されたい。4人的資本以外の要因が所得格差にも影響を与えると考えられる。例えば、Wood(1995)、BorjasandRamey(1995)、FeenstraandHanson(1996)はグローバル経済による国際競争が賃金格差の拡大に寄与することを指摘している。KataandMurphy(1992)、MurphyandWelch(1992)、Borjas,FreemanandKatz(1997)は人口構造の変化と移民の増加が賃金格差の変化に影響を与えると述べている。また、DiNardo、FortinandLemieux(1996)、4MarphyandWelch(1993)、John、MarphyandPierce(1993)は、アメリカにおいて、80年以後、高学歴労働者の教育の内部収益率(internalrateofreturntoeducation、以下ではIRRと呼ぶ)5が低学歴労働者より大きくなり、このことが所得格差の拡大に影響を与えることを示している。MartinsandPereira(2004)は、先進16ケ国のデータを用いて分析し、高所得層のIRRが低所得層より大きくなることが90年代以降の先進16ケ国における所得格差の拡大の主な要因であることを指摘している。また、その理由については、Mincer(1991)、BoundandJohnson(1992)、KatzandMurphy(1992)、John,MarphyandPierce(1993)、Berman,BroundandGriliches(1994)、Autor,KatzandKrueger(1998)は、技術進歩に伴って高学歴高技能労働者の労働需要が大きくなること、いわゆるSBTC(Skillbiasedtechnologicalchange)がその主な要因であると述べている。次に、中国の状況をみる。中国において、80年代以後、労働政策の規則緩和に伴い、労働市場が徐々に形成されてきた(蔡・白2006)。経済発展と技術進歩に伴い、高学歴者の労働需要が増加した一方、その労働供給は依然として不足している(付図2、付図3)6。こうした背景の下では、人的資本のリターンは大きくなると考えられる。また、こうした人的資本の変化は90年代以後の所得格差の拡大に影響を与えるであろう。さらに、GustafssonandLi(2000)、馬(2007a)は、教育水準が男女の賃金所得に与える影響が異なることを示している。人的資本が所得格差に影響を与えるとしたら、こうした人的資本の効果は性別によって異なるであろう。以上から、中国都市部の所得格差の要因を解明するため、以下のような4つの問題に関する実証分析が必要である。つまり、中国都市部において、第1に、経過年とともに教育の内部収益率はどのように変化したか、第2に、各所得階層のIRRは異なるか、第3に、人的資本はどの程度所得格差に影響を与えるか、第4に、男女によって、人的資本要因の効果は異なるか、である。現在までに教育の内部の収益率に関する実証分析がいくつか行われているが、人的資本と所得格差に関する計量分析は行われてFreeman(1996)、Lee(1999)は労働市場の賃金決定制度は賃金格差の変化に影響を与えることを示している。本稿では、これらの要因は人的資本以外の要因とする。5教育の内部収益率とは、教育の費用と教育の便益(生涯所得)の割引現在価値を一致させるような収益率である。IRRの計測方法については、第Ⅲ節で説明する。6『中国統計摘要』によれば、学歴別・労働者の割合については、1982年から2000年にかけて中卒労働者は17%増加し、高卒労働者は4.5%増加したが、短大以上の労働者の割合が増加せず、2000年に短大以上者が労働者の総人数に占める割合は僅かに3.5%であることがわかる。5おらず、これらの空白を埋めることが本稿の目的である。本稿の構成は以下の通りである。Ⅱで先行研究をサーベイした上で、Ⅲでは分析枠組みについて説明する。この分析枠組に基づく計量分析をⅣで行い、Ⅴでは結論として、実証分析から得られた知見をまとめる。Ⅱ先行研究のサーベイと仮説設定1.欧米の先行研究人的資本が賃金に及ぼす影響について、さまざまな理論7が述べられているが、Becker(1964)とMincer(1974)を嚆矢とする人的資本理論(humancapitaltheory)では、労働者の賃金所得が教育と訓練を通じて形成されることが指摘されている。人的資本理論によれば、学校教育と仕事を通じた技能・知識の習得による人的資本の上昇を通じて従業員の生産性が向上することにより、賃金所得が上昇することが説明されている。また、人的資本理論によれば、人的資本(humancapital)は「一般的人的資本」(generalhumancapital)と「企業特殊的な人的資本」(firm-specialhumancapital)の2つに分けられ、一般的人的資本は身に付けた知識や技能が他の企業でも共通に役立つ、これが学校教育を通じて形成される。一方、企業特殊的な人的資本が仕事を通じて形成される8。人的資本理論に基づいて、70年代以降の欧米では、ミンサー型の賃金関数を用いたIRRに関する計量分析が盛んになった9。以下では、欧米のIRRの時系列変化に関する実証研究の結果をまとめた上で、中国に関する先行研究をサーベイする。まず、Psacharopoulos(1989)は、昀小二乗法(以下ではOLSと示す)を用い、先進9ケ国の比較を行い、各国のIRRがいずれも経過年とともに変化し、つまり平均教育年数の増加に伴ってIRRが低下してくることを指摘している。Buchinsky(2001)は、1968年、1973年、1979年と1990年の人口センサスの