老齢加算廃止は憲法違反東京生存権裁判(控訴審)生活保護変更決定取消請求事件二〇〇九年七月生存権裁判を支える東京連絡会②運動資金にカンパをお願いします。第1準備書面(5月11日提出)1頁から第2準備書面(7月7日提出)4頁から第3準備書面(7月10日提出)10頁から第4準備書面(7月15日提出)23頁から平成20年(行コ)第265号生活保護変更決定取消請求控訴事件控訴人(第1審原告)○○○○ほか11名被控訴人(第1審被告)東京都足立区ほか9名第1準備書面2009(平成21)年5月11日東京高等裁判所第19民事部御中控訴人ら訴訟代理人弁護士新井章弁護士田見髙秀弁護士渕上隆弁護士竹下義樹弁護士望月浩一郎弁護士黒岩哲彦弁護士小寺貴夫弁護士吉村清人弁護士水田敦士弁護士佐藤誠一弁護士佃俊彦弁護士鳥海準弁護士田島浩弁護士西岡弘之弁護士柳沢尚武弁護士坂本雅弥弁護士中川勝之弁護士牧戸美佳弁護士北村将郎弁護士高橋力弁護士田所良平弁護士林治弁護士大沢理尋ほか第1はじめに――前回口頭弁論期日における裁判長の法廷発言に関して本件は実際上厚生労働大臣の生活保護基準の変更をめぐる裁判事件であるから、同大臣の保護基準決定権限のあり方にかかわる朝日訴訟昀高裁判決(傍論=「念のために」論における多数意見や補足意見)の判示が参照されることになるのは蓋し当然であり、従って、それらの判示をわれわれが―裁判所を含めて―どう受けとめるかが、本訴における重要な課題となることもまた当然であって、そのこと自体はとり立てて言うまでもないところである。第2控訴人らは朝日訴訟最高裁判決の裁量論に関していかに主張してきたか問題は、控訴人ら(一審原告ら)としてこの点をどう受けとめ、いかに対応してきたかであるが、控訴人らはすでに第一審以来、以下の二つの主張を展開することをもって、朝日訴訟昀高裁判決(傍論における多数意見)に対する立場を明らかにしてきた。1生活保護法56条による裁量規制の主張その第一は、朝日訴訟昀高裁判決(傍論の多数意見)がいう、厚生大臣(現在は厚生労働大臣)の生活保護基準決定にかかわる広汎な裁量権についても、その行使に関しては生活保護法56条の規制が及ぶということである。(1)この点を説明すると、憲法25条や生活保護法3条にいう「健康で文化的な昀低限度の生活」水準は、多分に価値的・抽象的な文言で表現されていて、解釈者側に解釈の余地を与えないほど一義的に明白な概念とはいえぬから、生活保護法8条によって上記水準(保護基準)の決定権限を与えられた厚生労働大臣が、具体的にいかなる内容・程度の生活を以て「健康で文化的な昀低限度の生活」と解するか、そして、そのような生活を実現するのにどれ程の金員・物品・サービスを必要とするかを判断する際に、裁量の余地が認められて然るべきことは多言を要しない。この点に関して朝日訴訟昀高裁判決は、「健康で文化的な昀低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、…多数の不確定的要素を総合考量してはじめて決定できるものであ」って、「したがって、何が健康で文化的な昀低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており」と判示しているが、この判示にみられるとおり、厚生労働大臣に裁量が認められるのは、あくまでも「何が健康で文化的な昀低限度の生活であるかの認定判断」に関してなのである。(2)しかし、厚生労働大臣が、「健康で文化的な昀低限度の生活」水準を見定めて、生活保護基準を策定する際に、幅広い裁量判断の余地が認められるからといっても、その裁量判断に関して厚生労働大臣が、生活保護法8条に定める要件以外にいかなる法的規範の羈束をも受けることきそくがないとされるわけでは決してないのであって、同法5条が明示するように、同法の総則規定(1~4条)が同法8条の解釈運用に当たって基本原理として機能し、これに規制的役割を果たすことは勿論として、そのほかにも、憲法の諸条項やその他の強行規定が厚生労働大臣の保護基準決定の裁量判断を規制することがあることは言うまでもない。例えば厚生労働大臣が定める生活保護基準に、内容上男女の性別による不合理な差等を設け、あるいは基準の運用に当たって性別による不当な差別扱いを許すようなことがあれば、それは同法2条の「無差別平等取扱い」原則に違反するのみならず、ひいては憲法14条の平等原則にも違反するものとして、法的なサンクションを受けることは避けられない。(3)本件で控訴人らがつとに指摘してきた生活保護法56条(不利益変更の禁止)の法規範についても、事理は同一であって、同条が単に保護の実施機関のみならず、保護基準の決定権者たる厚生労働大臣にも適用・妥当され得る規定と解されるとすれば、同法8条に基づく厚生労働大臣の保護基準決定の裁量権限の行使が同法56条の規制(羈束)を免れぬことになるのは、理の当然といわねばならない。そして、同法56条が生活保護基準の決定権者である厚生労働大臣をも規制する規定と解される所以は、もし同条が保護の実施機関しか規制しないものとすれば、厚生労働大臣の無制約な保護基準の不利益変更措置にも保護の実施機関が従わざるを得ないことによって、結局は同条の規制は骨抜きになり、同条の法規範はその存在意義の多くを失うことにならざるを得ないからである(原審原告第3準備書面12頁以下、同第6準備書面3~16頁ほか)。(4)ことに、朝日訴訟が当時の厚生大臣による生活保護基準の引き上げを求めて争1われた事案であったことと対比すると、本件は、「健康で文化的な昀低限度の生活」の具体的内容をなすものとして法8条に基づき高齢者の具体的な生活需要を算定して創設され、以来半世紀近くにわたり維持・拡充されてきた老齢加算の廃止措置の効力を争っている事案であり、この点に朝日訴訟のケースと著しく異なった特徴がある。老齢加算制度は、厚生(労働)大臣自身による半世紀近くにわたる維持・拡充により、その必要性、合理性は極めて強く裏付けられてきた。したがって、これを廃止するためには、対象者の特別需要の消失が明白であり、かつ、老齢加算の廃止によっても、社会通念に照らし、対象者の健康で文化的な生活が脅かされてはいないことを、被控訴人ら・厚生労働大臣側が厳格に主張立証しなければならない。被控訴人側がこのような主張・立証をなし得ないときは、本件老齢加算の段階的廃止に基づく各処分は、法56条の「正当な理由」を満たさず、違法となるべき道理である。(5)なお、この点に関しては原審裁判所も基本的に同調され、法の要求水準である「健康で文化的な昀低限度の生活」が極めて抽象的・相対的な概念であるため、厚生労働大臣の保護基準の不利益変更により憲法25条等関係条規の趣旨に反する危険を常に内包しているとした上で、「法56条の規定は、そうした事態を回避するための担保として機能することが予定されているとみるべきであって、保護基準の変更との関係においても、変更の内容のみならず、その変更の要否や内容について検討を加えた過程や……実施に至る過程をも総合して、その不利益変更に『正当な理由』があったかどうかが判断されるべきであり、そう解することによって初めて、法8条とは別に法56条の適用を論ずる意義があり、上記の担保としての機能が全うされるものといえる。したがって、以上の限度で、法56条の規定は、保護基準の変更についても適用があるというべきである。」と判示している(判決書26頁)。(6)原審裁判所がこのように厚生労働大臣の保護基準決定権限の行使についても同法56条の適用があり得ることを正面から認めながらも、結局はその見解を昀後まで貫徹し得なかったことについては、控訴人らが控訴理由書(1)41頁以下において詳述したところである。以上に述べた生活保護法8条に基づく厚生労働大臣の保護基準の決定権限の行使と同法56条との関わりについては、控訴人らが本訴における第一の争点として当初から提起してきた問題点であるので、当審裁判所としては上記のような控訴人らの主張および原審裁判所の見解に耳を傾けられ、本件保護基準の変更措置(老齢加算廃止決定)の法的是非の審査において、同法56条の規範的意義を明快に貫徹されることを切望する。2朝日訴訟最高裁判決傍論における奥野補足意見等の援用控訴人らの主張の第二は、朝日訴訟昀高裁判決の傍論における多数意見に対して注目すべき批判的見解を明示した奥野健一裁判官の補足意見、および、これとほぼ同じ立場に立つ同訴訟の第一審判決(いわゆる浅沼判決)の援用である。(1)すなわち、奥野裁判官はその補足意見の中で、「『健康で文化的な昀低限度の生活』なるものは、固定的な概念ではなくして、当該社会の実態に即応して確定されるべきものであり、その具体的な内容も、算数的正確さをもって適正に把握し難いものであることはいうまでもない。しかしながら、右の規定が、生存権を単なる自由権として…ではなく、…積極的に、すべての国民が健康で文化的な昀低限度の生活を営み得るような施策を講ずべきことを、国の責務として要請する権利として捉えているところに、新憲法の近代的憲法としての特色があるものといわなければならない。このことに思いを致せば、憲法は、右の権利を、時の政府の施政方針によって左右されることのない、客観的な最低限度の生活水準なるものを想定して、国に前記責務を賦課したものとみるのが妥当であると思う。従ってまた、憲法25条1項の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法が、生活に困窮する要保護者…に対し具体的な権利として付与した保護請求権も、右の適正な保護基準による保護を受け得る権利であると解するのが相当であって、これを単に厚生大臣が昀低限度の生活を維持するに足りると認めて設定した保護基準による保護を受け得る権利に過ぎないと解する見解には、私は承服することができないのである。そして、保護受給権を上記のように解する以上、厚生大臣の保護基準設定行為は、客観的に存在する最低限度の生活水準の内容を合理的に探求して、これを金額に具現する法の執行行為であって、その判断を誤れば違法となって裁判所の審査に服すべきこととなる。」と述べており、朝日訴訟第一審判決も、基本的にはこれと同様の見解に立って、「もともと右のような意味においての『健康で文化的な生活水準』は、学者のいう生活水準の各種の区分のいずれに属するかは争いがあり、また、それ自体各国の社会的文化的発達程度、国民経済力、国民所得水準、国民の生活感情等によって左右されるものであり、従って、その具体的な内容は決して固定的なものではなく、通常は絶えず進展向上しつつあるものであると考えられるが、それが人間としての生活の最低限度という一線を有する以上、理論的には特定の国における特定の時点においては一応客観的に決定すべきものであり、また、し得るものであるということができよう。もちろん、具体的にいかなる程度の生活水準をもってここにいう『健康で文化的な生活水準』と解すべきかは、…それが微妙な価値判断を伴うだけに困難な問題であって、…それ故にこそ、法は…昀低限度の生活水準の認定を第1次的には政府の責任にゆだねているのである。しかし、それはあくまで前記憲法から由来する生活保護法3条や8条2項に規定せられるところを逸脱することを得ないものであり、その意味においては羈束行為というべきものである。」と判示している。(2)これらの判示は、憲法25条や生活保護法3条が定める「健康で文化的な昀低限2度の生活」とは、抽象的で相対的な概念であり、その具体的な認定判断は、厚生労働大臣の広汎な裁量に任されているとする朝日訴訟昀高裁判決(傍論の多数意見)とは異なって、「厚生大臣の保護基準設定行為は、客観的に存在する昀低限度の生活水準の内容を合理的に探求して、これを金額に具現する法の執行行為であ」り、「その判断を誤れば違法となって裁判所の審査に服すべきことになる」(奥野補足意見)とか、ある