32009年(平成21年)11月30日 毎週1回月曜日発行榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎(昭和26年3月5日第3種郵便物認可) 第2719号付録②京都保険医新聞1開会宣言竹下義樹氏弁護士・つくし法律事務所全国生活保護裁判連絡会事務局長で埼玉県済生会栗橋病院の本田宏さん、一橋大学教授の渡辺治さん、弁護士で全国生活保護裁判連絡会事務局長の竹下義樹さん、NPO法人自立生活サポートセンターもやい事務局長の湯浅誠さん、です。 さっそく始めたいと思います。まず、呼びかけ人を代表して、竹下弁護士の挨拶、それと本日は残念ながら欠席されておられる、落合恵子さんのビデオメッセージを紹介いたします。 本日はご参加ありがとうございます。「貧困をなくし、社会保障を守る『基本法』を考えるシンポジウム」を開催したいと思います。私はこの会の事務局をつとめさせていただきました、京都府保険医協会副理事長の垣田と申します。よろしくお願いいたします。 まずこの会の呼びかけ人のお名前をご紹介させていただきます。作家でクレヨンハウス主宰者の落合恵子さん、都留文科大学教授の後藤道夫さん、医師2呼びかけ人を代表しての開会挨拶 こんにちは、ご紹介いただきました弁護士の竹下です。日本では、貧困社会、格差社会、ワーキングプア、非常に嫌な言葉が定着してしまいました。そういう背景のもとに今年8月30日、政権の交代があったのだろうと思います。 国民皆保険といわれるこの日本で、医療が命を守れなくなっています。障害者福祉が障害者の社会参加を実現できなくなっています。年金に対する国民の信頼が揺らいでいます。あるいは、生活保護という最後の生活保障の場面で餓死者を出すという、日本の現実があります。 こういう社会をどうすれば克服できるのか。誰もが安心して暮らせる社会を実現するにはどういうシステムが必要なのか。我々なりに勉強してみました。そして、今日みなさんとともにこのシンポジウムを通じて、この日本の現実を変えていく、そしてより安定した社会保障がこの国に定着する、そういう道筋を考える機会にしたいと思います。 本日のご参加どうもありがとうございました。垣田さち子京都府保険医協会副理事長42009年(平成21年)11月30日 毎週1回月曜日発行榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎(昭和26年3月5日第3種郵便物認可) 第2719号付録②京都保険医新聞落合恵子氏作家、クレヨンハウス主宰者 こんにちは、落合恵子です。世界に誇るべき恒久の平和を謳っている私たちの憲法があります。その憲法の25条には生存権が示されています。生きてそこに在る私たちの権利です。同時に、生きてそこに在り続ける私たちの権利という言い方も可能でしょう。すべて私たちは、健康で文化的な生活を営む権利を有しているという生存権についての話なのですが、私たちのこの生存権は今守られているか。言うまでもなく、憲法違反である、そういったことがあっちでもこっちでも、あの人のもとでもこの人のもとでも行われている時代と社会を、私たちは生きています。 これは憲法違反なんだと考えてみたとき、いろいろな景色が見えてくるような気がします。 例えば、派遣切りの問題。例えば、底が抜けてしまった社会保障の問題。いったい私たちはこれから、という前に、今このときをどう生きていくのか。 例えば、保育所の問題。子どもを保育所に預けなければ働くことができない、そんな家族は大勢いると思います。しかし、ご存知のように保育所の数は、現実に入りたいと願う子どもの数を収容するだけの力を持っていません。一方企業の方は、保育所をおさえていなかったら就職ができませんとお答えになっている。子どもも、働かなければならない親も宙に浮いてしまう。潜在人口というものがあります。表に出ていない人たちのことですが、およそ100万人と言われています。この子どもたちの居場所はどうなるのか。この親たちの働かなければならないという思いは、いったいどこに行けばいいのでしょうか。 例えば、私は約7年、母を在宅で介護しました。見送りました。お年寄りの置かれている居場所も他人事ではありません。私自身も間もなく高齢者になりますから。 例えば、特別養護老人ホーム、ほとんどのところで、300人、400人、市によっては何千人もの人が入所を待っている状況があります。85歳のその人に、「あなたの前に何百人いますから待っててください」とどうして言えるのでしょう。 例えば、「180日の壁」と呼ばれるものがあります。リハビリを必要としている人がいる。けれども180日経ってしまったら退院させなければ病院の経営は成立しない、これも不思議なものですよね。まさに、私たちの生存権を脅かしていると言えます。 年間3万3300人以上の方が、10年以上、自ら命を絶つという崖っぷちに追いつめられている。こんな時代、こんな社会ではなかったはずです。言葉にするのもいやですが、「弱肉強食」がそのまま生きている。「競争」という社会からどこまで私たちは抜けて、自分にはいったい何ができるか、私は私に問いかけたいし、声を上げ続けたい。手を挙げ続けたいと思っています。 数年前、北九州市の52歳の男性が、生活保護を打ち切られて、その人の日記の一番最後のページに「おにぎり食べたい」と書いて亡くなっていかれました。彼の悲しみ、苦しみ、無念さは、そのまま私たちの悲しみ、苦しみ、無念さになるのだと思います。 25条の生存権のお話からはじめさせていただきましたが、13条、「すべての国民は個人として尊重される」とあるはずです。これ以上の憲法違反に、私たちはどこまで「異議あり」と声を上げ、上げ続けるだけでなく実行に移すことができるか、問われていると思います。 新政権がスタートしました。私たちはしっかりと見つめていかなければならないと思っています。3呼びかけ人からのビデオメッセージ52009年(平成21年)11月30日 毎週1回月曜日発行榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎(昭和26年3月5日第3種郵便物認可) 第2719号付録②京都保険医新聞「派遣切り」とは何だったのか 社会保障を考える上で、雇用・労働の問題をどのように考えればいいのか、という話をさせていただきます。 最近は派遣切りという言葉も聞かなくなりました。マスコミがまったく報道しなくなってしまったからですが、派遣切りの問題をもう一度考えたいと思います。 去年12月26日夜10時半頃、私たちの事務所に電話がありました。東京の東村山市からの電話でした。21歳の男性で手持ちの金が800円しかない方でした。すぐに待ち合わせをして話を聞きました。話を聞いてみると、彼は栃木県内に生まれ育って、高校を中退してから派遣労働者として働いていました。派遣会社の寮に入って、トヨタの子会社で自動車の部品を作っていたということです。 ところが去年11月半ばで、契約を切られてしまうと同時に、寮も追い出されてしまいました。住む場所を失ってしまったので、おばあさんのところに行ったということです。そう聞いたとき、おばあさんのところに行けてよかったなと、最初はそう思いました。ところが詳しく聞いてみると、おばあさんは1年前に亡くなっているというのです。つまり誰も住んでいない空き家に、彼は住むことになりました。誰も住んでいませんから、電気、ガス、水道すべて止まっていました。栃木県の北部の冬ですから、相当寒いわけです。誰にも頼ることができない彼は、そこに2週間住みながら仕事を探しました。家がありませんから、住み込みの仕事を探すしかありません。ところが当時、いっせいに派遣切りが行われていましたので、派遣会社の寮に入れる仕事は見つかりませんでした。栃木ではダメだ、そう思って東京に出てきました。しかし、東京での仕事探しは、今度は家がない状態で探すことになりますから、どれだけ探しても見つかりません。毎晩、ネットカフェやサウナに泊まらなければなりません。ご飯も食べなければならない。そうこうしているうちに、手持ちの金が800円になってしまって、困り果てて私たちのところに電話をかけてきたということです。 去年12月、同様のことが全国的に数万人単位で起こりました。この問題から見えてくるのは、大規模な派遣切りがあれば、いつでも同じ問題は起こるということです。派遣法も改正されていませんし、社会保障の様々な法制度も大きく変わっているわけではないからです。雇用、とくに派遣の問題は放置されています。 派遣切りという言葉ができたのは、去年の秋以降です。アメリカの金融危機の余波で大量の派遣労働者の契約を切らざるを得なかった、というのが財界・大企業のいい分です。これは半分本当ですが、半分は嘘です。というのは、金融危機の以前から派遣切りということは頻繁にやられていたからです。 どういうことか。製造業を例にとると、製造業で派遣が解禁されたのは2004年のことです。派遣法自河添 誠氏首都圏青年ユニオン書記長「安定した雇用」と「充実した社会保障」との連関「ズバリ!ダメ出し─現場からの告発なぜ政治、法律の変革をめざすのか」4シンポジウム雇用・労働62009年(平成21年)11月30日 毎週1回月曜日発行榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎榎(昭和26年3月5日第3種郵便物認可) 第2719号付録②京都保険医新聞体は1985年にできて、99年に自由化され、以後どんどん規制が緩和されていきました。トヨタやキヤノンなど大企業メーカーは、毎月毎月の生産目標を立てて、それに応じて生産量を増減させています。それに合わせて原料や、部品を仕入れて生産する。当然、生産目標が少ない月には、原料、部品を少なくすることになります。ここで問題は労働力の調整です。労働力を調整するのは非常に難しい。直接雇用していればその人を首にしたり、休ませたりすることは簡単にできません。 しかし、企業にとって一番都合のいい働かせ方が派遣でした。直接雇用していないため、部品や原料を減らすのと同様、今月は200人送ってもらっていたけど来月は50人にしますということが簡単にできます。というのは、大企業メーカーと派遣会社との契約は「商取引」契約だからです。この商取引契約に従属する形で派遣会社と派遣労働者の雇用関係が成立しています。派遣切りにあった人たちは、こういった弱い契約関係の中に落とし込まれています。 派遣労働者はこれまでにも、派遣契約途中でメーカー側の都合で契約を切られてきました。派遣会社は派遣労働者を呼び出し、「この工場での仕事はもうありません。来月は別のところに行ってもらうしかないですね」という形で、他の派遣先を紹介していました。静岡で切られた人が大分へ行き、大分で切られた人が富山、栃木へ行き、さらに静岡へ行く。こういうふうに日本中を転々とさせられています。去年の派遣切りについて、派遣先の大企業や政府に責任がなかったわけではありません。これまでこうやって、使いやすい労働者として増やしてきたわけだし、より使いやすくするために派遣法も変えてきたわけです。その中で起こったことです。金融恐慌だけのせいではありません。 では、派遣切りは昨年秋以前から行われていたにもかかわらず、これまで大問題とならなかったのはなぜか。昨年が特別だったのは、大企業メーカーの利益を維持するために、いっせいに派遣切りを行ったからです。これまでは切られても、他の企業に回ることができた。今回は派遣労働者がまわる先がなくなってしまったということです。これまで見えなかった派遣切りの実態が見えてきたわけです。そして、失業しただけでなぜ家を失わなければならないのか。収入を失わなければならないのか。今の日本の社会保障の不備が浮かび上がってきたわけです。 去年の派遣切りによって、派遣法のひどさと社会保障の不備が目に見えるようになったわけです。そして、運動の側から、そのことを社会に見せるために行ったのが「年越し派遣村」の運動だったわけです。私たちは今見えてきた現実を変えていく、政治を変え、法律を変えていか