明治38年1月~11月『海南新聞』俘虜彙聞②2発行日付「俘虜彙聞」の見出しタイトル(「俘虜彙聞」以外の場合は色で網掛け)本文M38.01.10(第●号附録)(コピーなし)M38.01.11漸く旅順降伏を信ず旅順降伏の報に接したとき城北練兵場のバラックに在勤の諸員は仝所に居る俘虜等に我社から配布した号外を見せて語つい聞かした処其多くは決して其の様な事は無い彼の如き堅固な要塞で在りながら降伏する様な事はある筈がないと云つて居つたさうなが去る四日盛大なる国旗行列をなしたるに引続き屋台や囃子が毎日市中をねり歩き「日本勝つた勝つた」と大声に呼び立つるので所の俘虜将校等は皆門口に出で其景況を見斯く日本人が狂喜するのを見るといよいよ陥落は違ひあるまいとこゝに漸く信を措くに至つたと同時に彼等はシヨゲ返つてガッカリして居る風が見え何たか気の毒な様な気もするのである逃走士官ミルスキーの事コザック騎兵中尉ミルスキーが再び逃亡を企てゝ五名の海陸兵を連れてバラックを脱走せしも取押へられて取調中なることは前号附録に詳記せし処の如くなるが扨此ミルスキー中尉は曩に禁錮中委員長河野大佐が懇々と説諭を加へ以後斯る無謀なことはしないと云ふ宣誓をせよとのことを申し聞かしたけれども頑強にも之に応ぜず飽までも敵対行為を病めないと云張りドヽ彼のタゲーフの説諭にて然らばモー逃げまいと誓約したから夫では宣誓書を認めよとなると書類は決して認めぬ口約だけで済まして呉れと強て誓書を書かなかつたのださうな、スルト矢ッ張り逃亡の意志は依然翻さなかつたことは歴然である、就ては今回の事起りタゲーエフは大変委員長に気の毒がつて居るとは左もあるべし遥かに本国の父が異見ミルスキー中尉は貴族の子であつて現露國内務大臣ミルスキー侯なども其一族ださうな、そは兎に角客歳末のことであつた露本国にある中尉の父より一封の金と長文の手紙とが来たので収容所に於て訳して見ると日本松山にある騎兵将校が逃亡を企て取押へられたと云ふことが当地(露國)の新聞に掲載されたが或は汝ではあるまいかと気遣はれる、汝でなければ幸なれど若汝なれば実に不都合至極な丁●である一小島国に居て決して逃げ終すべきものでないから今後そんな無謀は思ひ止まるがよい遂げもせぬことを思ひついて夫が為め累を他の将卒に及ぼす様なことがあつてはならぬから謹直に身を持して静かに平和克復の日を待つがよいと懇々と説き諭して居るのであつた、で河野大佐は恰ど年末三十一日に彼を収容所本部に呼寄せ件の手紙を渡して親が斯程に気遣ふて居るのだから以後は屹度慎むがよいと言聞せたら彼もホトホト感動した如く公会堂へ帰つたのであるが其後一日二日を経てバラックへ参り二三日を経て今回の挙を敢てしたるは彼の意中を忖度するに苦む次第でツマリ一種の精神病者と云ふてもよからうM38.01.14●卒の死亡腹部及び●部に銃創を受け尚ほ他に打撲●等の重傷を負ひ清国●●子附近で我捕虜となつて居たカスローフスキー歩兵第百廿●連隊第六中隊兵卒イムソヴルチン、サイバターロフ(廿五)はバラックで治療中十日遂に死亡した、●では一昨日午後バラックにて葬儀を営んだ筈である来松すべき俘虜は五十名と云ひ三十名と云ひ其●●●公然の通知がないから判明はせぬが旅順の捕虜は多分二千八百名来松する予定である旅順俘虜将校来る昨日午後入港した御用船扇海丸にて旅順俘虜将校五十名、従卒五十名都合百名が高濱に上陸し伊予鉄の汽車で古町駅に下車し直に公会堂収容所へ収容せられた筈である、いづれ詳細は次号に記さう、これ旅順降伏●●の第一着来[将校]である、而して一応公会堂へ容れて置き[追て]分類の上各所へ転送するのださうな逃亡俘虜の取調終了騎兵中尉ミルスキー等の取調はすでに終了したが彼は一寸も卑怯な言は吐かず「左様自分が張本人で五名の下士卒●●を煽動し之を引連れたのである―五日の●●にバラックを逃●した、其後何処であつたか山中で崖から三十●下へ転落したことがある―無論目的を達する考へで逃げたのだけれども縛へられては仕方がない、どうか然るべく御処分下されたい」と悪びれずにスタスタ白状して終うたげな、いづれ近日中に憲兵に護送せられて善通寺に行き軍法会議に附せらることになつて居る3M38.01.15第一回旅順俘虜将校着松前号概記したるが如く旅順開城に就て我軍門に降りたる俘虜将校中大尉以下二十一名は従卒二十名と共に汽船第一扇海丸で十三日午後二時高濱に来着した、之が受領として監督委員竹内少尉は青木●●軍医、加藤通訳、安岡軍曹と共に高濱に出張したが此時すでに俘虜将卒は桟橋より上陸して新停車場に是等の人々を待合せて居る時であつたから直ちに各自の官職氏名を調査し終つて三時四十四分発の借切列車四台に乗せ古町駅着公会堂へ収容した其内重なる官等氏名は二等大尉アレキサンドル、マルチエンコ中尉アントン、コステユーシコ音楽隊長(中尉相当)グリゴリー、グレイズメル技師(武器係)ミハイル、ガールンスキーで外に見習士官が十七名で皆東部西比利亜狙撃隊の歩兵である第二回旅順俘虜将校着松第二回に着するのは将校二十九名、従卒三十名との予定であつたが急に模様が変つて十八名と十八名都合卅六名が来たのである、それは矢張り宇品港から転送になつたので第二扇海丸で高濱に着いたのが十三日の夜の十時三十分頃であつたが雨中を冒して上陸し仝じく汽車で古町駅へ着いたのが十二時四十分、公会堂へ収容を終つたのが昨日の午前一時過であつた、而して其の将校は歩兵第十三連隊のエゾツフ中佐を筆頭に左の十八名である中佐エブソフ、一等大尉ラツシン、仝アガルコフ、仝コシキン、仝グサコフスキー、仝スクリジン、二等大尉ロジヤンスキー、仝ミシエラ、仝ロタイスキー、仝サフイヤンニコフ、中尉ヤセウイ子、仝イワノフスキー、仝ボリヤーコフ、仝マルイシキン、少尉ワラズイコフ、特務曹長スクリジン、仝ノスコフ、軍楽隊長子ムチポフM38.01.17新来俘虜の[服装等]旅順の投降俘虜は何んな風で居るか知らんと思ひ第一回に来たのを十三日午後高濱へ見に行つたが所謂名誉の降服者だから剣は勿論双眼鏡や拳銃なども身辺に着けて居る又た[数個の勲章]の胸間にひらめかして居るのもあつた、大尉や中尉は外套を着て居なかつたが見習士官は何れも鼠色の外套を着けて居る、それから剣は外套の下に肩から釣て居るのだが黒革で包んだ長い奴ばかりだ、何と云つてもドンドンパチパチの[戦場]で捕虜になり直に送られたのと違てチヤンと●●を整へて来たのだから被服から携帯具も揃つて居るが中には血付の外套を着て居るのもあつた第三回旅順俘虜将校着松十四日夕刻第一扇海丸で高濱へ着した旅順●●俘虜は将校三十九名(準士官、文官を含む)、従卒四十名で収容所委員松澤少尉が受領し汽車にて午後九時三十五分古町駅着[其]内将校十名、卒十名は公会堂へ収容し他は一番町へ収容した其官氏名左の如し▲公会堂収容の分中佐ウラヂミル、ヅーボフ仝コンスタンチン、プシユカールスキー一等大尉マーベイ、ガヴリーロフ仝フヨードル、ガツフエルベルグ二等大尉アルカーデイー、リユビーモフ仝アレクサンドル、ウスペンスキー中尉アルカーデイー、プリゴージー仝ニコライ、シリウジスキー仝アレクサンドル、フローロフ●●中尉ミハイル、アキーモフ4▲一番町収容の分二等大尉セルゲーイ、ウエセローフスキー仝イワシツゾ、グリゴローウ井ツチ中尉ニコライ、ポポーフ仝エウゲーニー、ニコーリスキー仝ゲヲルギー、サドウイコーフ仝ミハイル、子クラーソフ仝ハーウエル、ウリオーン●仝ハーウエル、ポンダリコートフ少尉ユドワール、ウイリマン仝ウラジミル、シドーロフ仝アレクサンドル、ユージン予備●(一年志願兵)ブローホル、グナシユーク特務曹長セミヨン、ポダコフ仝イワン、コレソーフ仝アシヅレード、ブルイギン仝ヒヨードル、グリヤーウイン仝ブロホール、ラザレフ仝ヒヨードル、サモロードフ仝ニコライ、エルマコーフ仝アレクサンドロフ、シクリユーコフ仝ヤーコフ、モイセイエフ仝セルゲイ、ノボローツキー仝ヒヨードル、シリワーノフ仝エフスターフイ、ウルスレンコ仝イヨフシツフ、パスケーウイツチ文官ミハイル、グレチヤノーフスキー仝マクシーム、ミチーエフ仝イワン、グジユーリン仝ワシリー、アレクサンドロフ第四回旅順俘虜将校着松十五日午後病院船弘済丸で高濱へ着した分は何れも負傷者で下士が三名、卒が三十九名である、これは午後四時三十分古町駅に着し或は担架で或は人車で城北バラックへ送られたが中には徒歩で行た軽傷者もあつた5第五回旅順俘虜将校着松十五日午後別に四十七名の健康者も着した、其れは第二扇海丸で来たので●●●●●に上陸し古町駅着車が夕刻七時頃であ[つたが]其の中には二名の小児と一名の僧侶も加は[つて居る]将校二名、従卒二名と小児とは公会堂へ収容され他は皆一番町へ容れられた、将校氏名左の如し▲公会堂収容の分二等大尉イワノウ井ツチ、ブーガコーフ中尉ワシリーウイツチ、シユムスキー▲一番町収容の分一等大尉ワシリー、アンドレーエフ仝ニコライ、プロトポーポフ仝ニコライ、ミハイロウ仝アルカジ、ソコローフ二等大尉パーウエルマ、ニコーフスキー仝ミトロフワン、グヅリヤコーフ仝アレクサンドル、ケーゲリ中尉ウラジミル、ルサウ仝ニコライ、スツレヽツキー少尉ボリス、キシンスキー仝アレクサンドル、マリノーフスキー仝ボリス、ミスラーフスキー仝ニコライ、ジエガーロフ仝ニコライ、ステラワイウイチ仝ブロニスラーフ、ウエンヅンヤゴーリスキー仝エウゲニー、サウイツキー特務曹長アレクサンドル、コージン仝ミトロフワンカルポフ仝ウラジミル、サウイツキー連隊附僧侶ニコライ、トレスウヤトスキー第六回旅順俘虜将校着松十六日午後一時にも亦た健康者将校四十三名、従卒四十三名計八十六名が第一扇海丸で高濱へ着港し出淵町の妙清寺へ収容された筈だ第七回旅順俘虜将校着松又十六日午後二時高濱へ着した筈なのは何れも傷病者で其人数が七十名、これは無論バラックへ収容された、いづれ詳細は次号に記すことゝせう新収容所開始閉鎖中であつた一番町及び妙清寺収容所は別項の如く再び開所することゝなつたが新たに御幸村山越の八ヶ寺をも収容所に採用することゝなつた、本日あたり開所するだらう、而してこれへは下士以下の健康者を収容する予定だとのこと脱走俘虜の出獄去る九月十日の夜法龍寺収容所収容中なりし俘虜兵ブレゴード、ホムトフ(二十八)とアレクセンチン、ペレベーノス(二十五)の両人が共謀の上同所を脱し温泉郡和気濱の船を盗んで漕出せしも操舟意の如くならず再び上陸して高濱の[横]山に隠れて居たが十二日の朝国旗行列の時発見されて取押へられた顛末は当時の紙上に詳記したが此両人は其後第十一師団軍法会議に廻され取調の結果窃盗罪を構成し長らく高松監獄に苦役中の処今回期満ちて今十七日午前八時出獄するさうな、就ては之が受取りとして●補充大隊より軍曹一名、卒一名一昨日出発仝地へ赴いた捕虜佩剣に就て今度捕虜となつて来た捕虜は名誉の降伏だなど、強慢な挙動をして居る、収容所の室内で佩剣のまゝで●歩して居るが宣誓して帰国したのと違ひ捕虜となりたる上は剣は脱せつむるが当然であらうといふ議論もある様子で目下其筋の問題となつて居るさうな6旅順の孤児去る十五日の宵第二扇海丸で来て高濱から上陸して松山公会堂へ収容された俘虜の中に七歳と五歳の男子がある之れは旅順に在つて名誉の戦死を遂げた大尉某の孤で母なる人も旅順で看護婦になつて忠勤を励んで居たが憐むべし我が榴散弾に当つて無残の最後を遂げた、から二人児は●●●の●●●●●父大尉の親交ある武人の情に此の名誉の降服俘虜の一行に●加つて居るのであるとM38.01.18一昨日来着の俘虜は前号に記した通り第一扇海丸で来た健康者と病院船神宮丸で来た患者とであるが前者は中佐一名、大尉四名、中尉四名、少尉十二名、軍属官吏八名、士官候補生(特務曹長)十四名、従卒四十三名、計八十六名でこれは午后一時着港桟橋から上陸して平川少尉が受領の上二時二十五分の汽車に乗せ三時古町駅着中ニコライ、ミハイロウ井ッチユ、ヲベルチエ