日本近代文学史啓蒙思想の文学啓蒙家たち福沢諭吉(ふくざわゆきち)西周(にしあまね)中村正直(なかむらまさなお)加藤弘之(かとうひろゆき)福沢諭吉(ふくざわゆきち)天保5年12月12日~明治34年2月3日(1835~1901)明治の代表的な啓蒙思想家。1868年慶応義塾を創設『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)。西周(にしあまね)文政12年2月3日~明治30年1月31日(1829~1897)明治の啓蒙思想家。(1862)から慶応元年(1865)までオランダ留学。明治元年(1868)『万国公法』を訳刊。西洋哲学、論理学等の導入者として、多くの術語を考案した。中村正直(なかむらまさなお)天保3年5月26日~明治24年6月7日(1832~1891)慶応2年(1866)幕府遣英留学生の監督として渡英。同人社創立者。14年(1881)東京大学教授、文学博士。個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調した。加藤弘之(かとうひろゆき)天保7年6月23日~大正5年2月9日(1836~1916)ドイツ学を研究帝国大学総長を歴任翻訳文学翻訳文学流行した理由西欧に対する好奇心外国文化、習慣、風俗に対する理解伝統的文化の近代化文学史的重要な点純粋な文学書の翻訳の最初である文体の面で片仮名交り漢文読み下し体の文章中江兆民(なかえちょうみん)政治小説政治小説とは政治上の啓蒙、主張、宣伝、風刺などをその目的とする小説。末広鉄腸の「雪中梅」政治小説の文学史的意義文学的関心のたかめいろんな階級の人々に創作的興味を起こさせたという結果【写実主義】現実をあるがままに再現しようとする芸術上の立場。リアリズム。写実主義文学論の提唱(一)、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の『小説神髄』(しょうせつしんずい)1.坪内逍遥(つぼうちしょうよう、安政6年5月22日(1859年6月22日)-昭和10年(1935年)2月28日)は明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。2.東京大学文学部政治科卒業。『小説神髄』(26歳)『当世書生気質』を発表して写実による近代文学の方向を示した。3.本名は坪内雄蔵(つぼうちゆうぞう)『小説神髄』近代文学の方向を最初に明らかにした。日本最初の近代評論。『小説神髄』1.文学の自律性を主張した。「小説は美術(芸術)なり」と規定し、一切の功利主義的文学観に反対して、芸術としての文学の存在理由と価値を明らかにしようとした。『小説神髄』2.文学の中心ジャンルに小説をすえた。進化論を導入して、文学の歴史をジャンルの変遷の歴史と捉(とら)え、小説こそ最も進化し、近代社会の複雑な現象を描くのに最も適し、すぐれた形態であると、小説の優位性を主張した。『小説神髄』3.写実主義を主張した。つまり、小説家は戯作に見るような荒唐無稽(こうとうむけい)な、或いは類型的な人物を描くことではなく、現実的人間の心理·性格や,世態風俗を描くべきだと、写実の対象を規定し、写実の方法として、主観を排して、心理学者のごとく観察·分析して、ありのままを純客観的に描くことであると主張した。『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)1.『小説神髄』の実践作(長編小説)2.当時新興の書生を対象としてその生活の種々相を細かに写し出したところに新味があったが、人物が類型的で、深い人間探求や社会批判がなく、用語にも戯作調が目立って、「新旧両時代の橋梁(きょうりょう)」と位置づけるべき作品だったとしか言えない。影響逍遥の文学理論と実作に内在する近代性と前近代性(戯作性)の二重性のため、その影響下の後の文壇には、尾崎紅葉をかしらとする硯友社の文学と、二葉亭四迷に代表される近代文学という、二つの傾向を生み出す結果となった。(二)、二葉亭四迷(ふたばていしめい)と『浮雲』二葉亭四迷(1864~1909):1.日本近代文学の創始者であり、批判的リアリズム文学の先駆者でもある。2.1886(明19)年『小説総論』を発表して、逍遥の『小説神髄』より、はるかに徹底したリアリズムの実質を示した。3.翌年、『浮雲』を発表して、近代リアリズム文学の創始者となった。『小説神髄』と『小説総論』坪内逍遥の写実は「只傍観してありのままに模写する」という現象の再現にとどまりがちであった。二葉亭の模写は現象を本質との関係においてとらえ、写実における個々の意味深い現象を選択·構成·描写して、深い本質の表現をめざすものであった。『小説総論』は用語·概念の未定着からくる難解、簡略すぎて説明不足になったところもあるが、本格的な近代リアリズムの文学理論を提出した画期的な意義をもつ評論であって、『浮雲』の方法論的母胎(ぼたい)となった。『浮雲』の主な登場人物1.内海文三(うつみぶんぞう)ヒーロー。役所勤めをする23歳の知識人。13歳の時に父を亡くす。幼少時から成績抜群。立身出世を求め、東京の叔父の家に寄宿する。実直であるが優柔不断で、叔父の娘・お勢に惚れているが、言い出せない。上司との関係がうまくいかなかったのでリストラされてしまう。2.お勢(おぜい)文三の従妹。3.本田昇(ほんだのぼる)24歳。文三の同窓、後同僚。出世主義者。4.お政(おせい)文三の叔母。お勢の母。『浮雲』の新しさ1.言文一致体2.描写の手法ー客観的リアリズム3.人物の造型、心理面4.新旧思想の対立言文一致運動(明治20年代から)写実性を目指した口語体実践運動提唱者とその実践作:二葉亭四迷『浮雲』(だ体)山田美妙『胡蝶』)(です体)尾崎紅葉『多情多恨』(である体)擬古典主義明治20年代、行きすぎた欧化主義への反動から江戸文学、とくに西鶴(さいかく)にならった擬古的な写実観に立つ文芸思潮。尾崎紅葉(おざきこうよう)を中心とした硯友社の作家や幸田露伴(こうだろはん)らの文学をさす。雅俗折衷体(がぞくせっちゅうたい)と物語の面白さで受け入れられた。(近現代文学事典)樋口一葉(ひぐちいちよう)の文学も。硯友社(けんゆうしゃ)明治期の文学結社。日本において最初の文学社。1885年、尾崎紅葉、山田美妙(やまだびみょう)、石橋思案(いしばししあん)、丸岡九華(まるおかきゅうか)によって発足。「我楽多文庫」(がらくたぶんこ)(日本初の純文芸雑誌)を発刊、当時の文壇で大きな影響を与える一派となった。明治36年(1903年)10月の紅葉の死によって解体したが、近代文体の確立など、その意義は大きい。尾崎紅葉尾崎紅葉(おざきこうよう):慶応3年12月16日(1868年1月10日)-明治36年(1903年)10月30日)日本の小説家。江戸生れ。帝国大学国文科中退。明治18年(1885年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。作品:『金色夜叉』(こんじきやしゃ)金色夜叉(こんじきやしゃ)尾崎紅葉著の明治時代の代表的な小説。読売新聞に明治30年(1897年)1月1日~明治35年(1902年)5月11日まで連載された。作者逝去(せいきょ)の為、未完。昭和に入って、度々、映画、ドラマ化されるようになった。『金色夜叉』のあらすじ一高の学生の間貫一(はざまかんいち)の許婚(いいなずけ)であるお宮(鴫沢宮、しぎさわみや)は、結婚を間近にして、富豪(ふごう)の富山唯継(とみやまただつぐ)のところへ嫁(とつ)ぐ。それに激怒した貫一は、熱海(あたみ)で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。『金色夜叉』のあらすじ「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、月が・・・曇つたらば、宮さん、貫一は何処(どこ)かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思つてくれ」と貫一は叫び、宮の前から姿を消す。貫一は復讐のために、高利貸(こうりがし)になる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。樋口一葉ひぐちいちよう明治5年3月25日~明治29年11月23日(1872~1896)東京生まれ。歌人、小説家。25年(1892)に発表した『うもれ木』は出世作となり、「文学界」同人との交流を得た。『にごりえ』(1895)、『たけくらべ』(1895)など明治時代の貧困と身分差別の中で生きる庶民の涙とため息、そこへの深い共感。ロマン主義一八世紀末から一九世紀の初めにかけてのヨーロッパで、芸術・哲学・政治などの諸領域に展開された精神的傾向。近代個人主義を根本におき、秩序と論理に反逆する自我尊重、感性の解放の欲求を主情的に表現する。憧憬(どうけい)・想像・情熱・異国趣味と、それらの裏返しとしての幻滅(げんめつ)・憂鬱(ゆううつ)などが特徴。ロマン主義文学ではルソー・ゲーテ・ワーズワースを先駆とし、スタール夫人・シャトーブリアン・ラマルチーヌ・ユゴー・ミュッセ・バイロン・シェリー・キーツ・ノバーリス・シュレーゲル兄弟、絵画ではジェリコ・ドラクロア・ゴヤ、音楽ではシューベルト・シューマン・ショパン・ベルリオーズらに代表される。日本のロマン主義(浪漫主義)封建的社会から近代市民社会への転換期を背景に生まれた。それゆえ、自我の確立と拡充、思想と感情の自由を急進的に求めたところに特色をもつ。それは、西欧文化とキリスト教思想の受容による、前近代的な儒教倫理や封建的習俗への反逆となって現れた。また伝統的な美意識による、西欧的な合理思想・功利主義への抵抗となって現れた。この二つの相反する動きのはざまを母胎として、日本の浪漫主義は成立している。日本のロマン主義(浪漫主義)その先駆けは、森鴎外(おうがい)『舞姫(まいひめ)』(1890)などの三部作や、『文学界』(1893~98)に拠(よ)った北村透谷(とうこく)の評論、島崎藤村の詩である。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情的真実を探り、自我の確立を目ざした。ついで明治20年代末に登場した高山樗牛(ちょぎゅう)は自我の充足と拡大を唱え、浪漫主義の理論的裏づけを行った。日本のロマン主義(浪漫主義)本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花する。主流となったのは、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)夫妻を中心とする『明星(みょうじょう)』(1900~08)である。好んで星と菫(すみれ)を歌い星菫(せいきん)派と称された。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。藤村の『若菜集』(1897)の流れをくむ薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、伊良子清白(いらこせいはく)らの浪漫(ろうまん)的情緒がそれに続いた。日本のロマン主義(浪漫主義)小説では、幻想(げんそう)と神秘の泉鏡花(きょうか)、自然の永遠性を渇望する国木田独歩(くにきだどっぽ)、翻訳では、鴎外の『即興詩人』(1892~1901)、評論では綱島梁川(つなじまりょうせん)の神秘的宗教論などがその実質を形成している。このロマン主義の流れは、明治40年代に入って、異国情緒とデカダンス(退廃、堕落)を重んじる傾向へと変質していく。この傾向を新ロマン主義とも、耽美(たんび)派とも称する。日本のロマン主義(浪漫主義)ロマン主義に相反するものとして考えられることの多い古典主義の特徴が法則の肯定であるのに対し、ロマン主義の特徴は法則の否定である。ロマン主義は、古典主義に対する文学上の革命であった。森林太郎所属組織大日本帝国陸軍最終階級陸軍軍医総監指揮陸軍省医務局長賞罰正四位・勲二等・功三級森鷗外(もりおうがい)1862年2月17日-(1922年)7月9日)島根県出身。本名は森林太郎(もり・りんたろう)。東京帝国大学医学部卒業。明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚(高等官