日本文化史の特徴日本の国技ー大相撲日本文化史の特徴文化の意味文化とは何か•文化は人類が自然の基礎の上で、社会活動の中で創造し、保存した内容の総和として、また生きている創造活動として進展変化しているものだ。参考資料:《日本文化概論》文化の意味文化の構造物質の文化精神の文化制度の文化(一切の製造物)(宗教、芸術、文学、知識娯楽、科学など)(政治文化、経済文化、教育文化、礼儀文化など)日本文化史の特徴第一に:政治的要素が重要な働きをする第二に:日本文化の発展史は日本が異民族の文化を摂取する歴史でもある第三に:日本文化史は文化の新と旧、固有と外来の違った文化を並存させて、矛盾と統一の構造を呈する歴史だ。大化改新:大化年間に行われた王権中心の中央集権国家体制の形式を目指す政治改革。645年始また。紀元600年、聖徳太子が中国に遣隋使を派遣し始め、次いで留学生と学問僧を隋に送って、大陸文化を学ばせた。618年唐が中国を統一して後も、日本の朝廷は留学生、学問僧の派遣も続けた。640年頃遣隋使、遣唐使らが帰国した。大化改新参考資料:《日本文化概論》大化の改新では、中国文化の輸入を通して、日本で集権的官僚国家建設を目的とし、中国の先進的な生産方式と政治制度を吸収した。例えば、唐代の体育娯楽も日本に伝割り、その多くは現在の日本人の生活とも深い関係を保ってきた。将棋、囲碁などがある。日本の伝統の年中行事も唐の影響がかなり大きい。端午の節句、七夕、中秋の日などが中国と同じ存在している。鎌倉幕府の成立(1185年頃)鎌倉文化の特徴としては、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗し、文化の二元性が出てきたところにある。作風は、一般に素朴で質実、写実的と言われる。中国(宋・元)からの禅文化の影響も色濃い。鎌倉時代は本格的な武家政権による統治が開始した時代だ。源頼朝鎌倉新仏教の宗派が興隆し、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。また、仏教の一般大衆化も推進された。鎌倉高徳院大仏(1252年)平家物語(平家の栄華と没落を描いた軍記物語)江戸幕府の成立(1600年頃)歌舞伎が江戸時代に洗練されて完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。徳川家康)江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより人びとの言論活動も活発になり多様な学問が開花した。江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。江戸中期くらいから郷村で村塾といわれる私塾が出てきた.参考資料:年に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国が歌舞伎の元祖といわれている。阿国像(京都)明治維新:形式上は徳川氏から朝廷への政権移行、実質上は封建制から国家統一と資本制への移行連なり、日本政府葉西洋文明を目標として、一連の改革を行った。日本は西洋教育制度、近代科学、経済制度などを吸収した、明治初年の文明開化は、日本人の生活方式と風俗習慣に大きな変化をもたらした。日本は、古代から仏教の影響が強く、肉食が少なかった。西洋に学び、国民の体力を強くするため,天皇は牛乳を飲み、牛などを食べ始めた。明治維新(1868年)参考資料:《日本文化概論》束帯姿の明治天皇(めいじてんのう)明治維新後の日本の街第二次の世界大戦の失敗とアメリカ軍の占領のよってアメリカ文化を大規模的に吸収するようになった。戦後アメリカ式の生活方式と価値観が日本人の生活と観念に大きなショックを与えた。食については、戦前、朝食はご飯に味噌汁という伝統的なものだったが、戦後はパンにチーズなどの洋式のスタイルも普及した。参考資料:《日本国情概況》世界の日本文化の研究海外だけでなく、日本国内においても日本人自身による日本文化の研究も盛んだ。日本人論(一)風土と国民性日本は島国で山が多く、地形も大変複雑だ。植生については多様性が著しい特徴だ。気候は全体的にみて、割合温和であり、雨量が多く、湿気も多い。特に厳しい自然条件はあまりみられないことだ日本の自然条件日本の自然景観季節感と言うのは、日本の稲作文化に大きく関係している。とくに日本は稲作の北限で、季節に厳しく支配されていて、仕事が三日遅れても大変なことになる。春夏秋冬の四季の微妙な変化に感じて、「松風の音を聞き、虫の音をめでる」といった自然への鋭敏な感覚を育み、それを基に、水墨画とか、茶の湯と生け花、また日本舞踊とは和敬静寂、閑寂枯淡の情趣をもとにした芸術が生まれている。季節感と美意識風土と国民性参考資料:茶の湯生け花舞踊集団意識日本の風土、水稲農業という生産様式などの要素が絡まり合って培われた日本人の集団意識は頗る根強いもので、日本人の意識、行動、価値観などにおおきな影響をおよぼしている。特に日本人の集団に対する帰属意識は強く、集団に属していることによって安定感を感じ、生きがい、満足感などを感じる。風土と国民性「和」を大切にする日本人の精神的背景には、日本人が自然との調和を尊重する観念があると見られている。日本の建築物や庭園などの様式では、自然をそのまま素材として生かそうと努めていることが分かる。世界には、「自然は人間に征服されるべきもの」「人間は自然に屈服すべきもの」などの考え方もあるが、日本人は一般的に、「人間は自然と調和を保つべきもの」と考えている。和風土と国民性日本のタテ型の上下関係は厳しい身分等級制度の上の成り立っている。序列を決定する基準は、年齢、社会の地位、集団における経験年数、性別などだ。例えば、江戸時代の「大名」の等級にも血縁以外の徳川幕府に従属する年代二よって、「親藩」、「譜代」、「外様」などのように分けた。日本語は敬語が非常に発達しているが、これも日本人上下関係を重視することによるものだ。(二)タテ社会の序列参考資料:日本文化概論日本の国技ー大相撲大相撲相撲の歴史神話の中の「相撲」日本の「古事記」には、建御雷(タケミカヅチ)と建御名方(タケミナカタ)という2柱の神が、互いの腕をつかんで投げあうという形の相撲をおこなったということが書いてある。参考資料:弥生時代(約紀元前300年~紀元300年):『日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いもある。これは垂仁天皇7年ある野見宿禰(名前)と當麻蹶速(名前)の「捔力」(すまひ)の戦いだ。宿禰は相撲の始祖として祭られている。古墳時代(約300年~710年):『日本書紀』の雄略天皇十三年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲である飛鳥時代(約593年~710年)『日本書紀』には皇極天皇元年(642年)7月12日(旧暦)に百済の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれている。奈良時代(710年~794年):聖武天皇は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集した。毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したのである。こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称された。平安時代(794年-1185年):毎年恒例の宮廷行事として定着し、相撲節と呼ばれ、また、乾季の雨乞い祈願の行事として行われることも忘れてなはならない。室町時代(1333年~1568年):民衆の競技として各地で大流行した。江戸時代(1600年~1868年):職業として大相撲が始まった。明治時代(1868年-1912年):一時衰えたが、日露戦争後、史上空前の時代をむかえ、1902年には東京国に国技館が建設されている。大相撲の現状日本相撲協会:今日の相撲業界を組織運営している。相撲は年に本場所として六場所を設け、一場所十五日間の興行を行っている。相撲の階級の順(番付)69代横綱:白鵬翔(はくほうしょう)開催月通称開催場所一月初場所東京三月春場所大阪五月夏場所東京七月名古屋場所名古屋九月秋場所東京十一月九州場所福岡巡業:一年間に六回ある場所とは別に、各場所の合間を縫う(见缝插针)ように地方や海外へ言って興行すること初日:一つの場所(15日間)の最初日のこと千秋楽:一つの場所(15日間)の最終日のこと番付(相撲の階級の順)幕の内=幕内横綱大関関脇小結十両幕下三段目序二段序の口三役平幕=前頭役力士相撲取り組みの流れ土俵:土を盛って作る相撲の競技場踏み俵(計10俵):土俵に上がる段のためのもの、土俵の周りに東・西・南部分に各3俵、北部分に1俵勝負俵(計16俵):土俵の中央に直径4.55m(15尺)の円清めの塩:土俵に撒く塩(土俵上の邪気をはらうと軽い皮膚の傷を化膿を防ぐため力水と力紙:力士は口を漱ぐ、体を清めるもの行司:勝負を決める人、場内放送は行司2名がペアを組み、2名のうち1人がアナウンスを務め、もう1人が勝敗結果の記録など補佐を務める。審判委員:大相撲において、行司とは別に相撲勝負の判定に加わる審判のこと吊り屋根:昭和27年(1952)9月場所から、それまであった四本柱(しほんばしら)を取り払い、屋根だけ残したものです。吊りやね土俵行司力水と力紙勝負審判踏み俵勝負俵相撲関連用語チャンコ:力士の体力を維持、強化するのに欠かせない料理だ。ポン:勝敗のことを指す(勝は「白星」,敗は「黒星」)手:相撲の勝負を決めた技(「決まり」-勝者が攻めに使った手)座布団の舞(ざぶとんのまい):、大相撲の取り組みにおいて横綱が格下の力士に負けた時に、観客が土俵に向かって自らの座布団を投げる行為のことである。など。。。チャンコ料理質問:さっきのビデオについての感想?ご清聴ありがとうございました!