金剛輪寺・千体地蔵琵琶湖の東に位置する金剛輪寺は鈴鹿山脈の西麓にある。大仏さまを建立した聖武天皇と行ぎょう基き菩薩により七四一年(天平十三年)に開山された。本堂は鎌倉期を代表する和様建造物で、堂内には秘仏本尊聖観音、阿弥陀如来坐像、不動明王、毘沙門天立像、十一面観音、四天王像などが安置されていて間近で拝観できる。本堂は国宝に、美しい姿を見せる三重塔と二天門は国の重要文化財に指定されている古こ刹さつである。また、近江路を代表する庭園は国の名勝となっていて旅人を魅了する。四季折々の光景は訪れる人々に安らぎを与える。写真の千体地蔵尊は三十数年前から現在の信徒たちが回向を込めて建立したものだという。本堂へ向かう長い石畳の参道やその脇では約千七百体が参詣者を迎えてくれる。深紅の風車が供えられ杉の巨木とマッチして美しい。八月九日の千日会えには明かりが入り幽玄の世界を醸す。レンズを通し静かな佇たたずまいを映像化していると、心が洗われる思いであった。(写真・文 樋口健二)其の四十五巻頭言巻頭言日本フットパス・システムの夢おこし社団法人 日本ウオーキング協会会長/歩行文化研究所所長 村山 友宏ついに日本にも、草の根市民活動の中からフットパスづくりの全国連携が始まりました。その歴史的意味は限りなく大きく、欧米の“歩きみち”を歴訪し、日本でもぜひ世界に発信したいニッポンのふるさと・地域の誇りをユニバーサル・フットパスで日本列島をつなぐ夢を追ってきた者としては感慨ひとしおです。歩くことが人間の限りなく豊かな営みであることに気付かないのは便利漬けの現代人の通弊ですが、歩くことを楽しむ“歩きみち”が社会資本として重視されていない国は、先進国の中では日本だけのようです。ウオーキングの実践が健康・環境・観光・教育・交流の5K分野に社会貢献することが知られ、またウオーキング志向人口が国民の五一%に達した今(二〇〇九年九月内閣府世論調査)、ウオーカブル日本、ウオーカブル都市をどうつくるかは、まさに時代のテーマです。フットパスづくりはハード先行の土木事業ではなくソフトな生活文化事業です。フットパスづくりの原則は、①官民連携でも歩く人が主体、②地域の誇りのネットワーク、③公共交通機関とのアクセスの配慮、④明解な道標とマップ、⑤体力に応じて選択可能なコース設定、ユニバーサルの配慮、⑥地元の十分な理解、⑦環境や住民の生活静穏を守る利用ルール、⑧道を守り育てる利用者責任の仕組み。アドプト制度・歩くみち守り・フットパス・レンジャー等、⑨地域調整役のフットパス・コーディネーター(道中奉行)の設置、⑩将来はコースを広域ネットワークし、先人の足跡やニッポンのふるさとをネットワークする日本フットパス・システムへのリンクを視野におく、等が望まれます。欧州大陸にはE1〜の長距離フットパスがあるように、米国にも一九六八年ナショナル・トレイル・システム法ができ十七本のナショナル・トレイルができています(日本の東海自然歩道はこのうちトレッキングコースのアパラチアン・トレイルがモデル)。十四、五年前に私どもは米英独の“歩きみち”を二年間現地調査し、その事例を『ウオーキング・トレイルのみちしるべ』として出版しました。建設省に提言した「ウオーキング・トレイル事業」は一九九六年から始まっています。その後、私どもは二〇〇四年に国土交通省後援で「美しい日本の歩きたくなるみち」500選を公募し実踏選定したところ利用者は年間九百万人を超えました。この勢いを得てさらに国際級の「日本フットパス・システム」の実現をめざし、各地のウオーカーやベテランのユースホステラーたちとともに実踏調査を始めています。“気持ちよく楽しく歩ける”地域づくりへの住民参加は地域活性化の引き金となり、日本の魅力を旅して歩く「日本フットパス・システム」づくりは観光立国の大きな礎いしずえとなるはずです。さあ、各地で「日本快歩列島」夢おこしの一歩を!(むらやま ともひろ)特集1ウオーキングブームは経済先進国に共通の現象のようである。英国では麦畑の中でも歩いて行ける歩行者の権利が保障され、そのための歩行路ができている。この道はフットパスと呼ばれ、十六万キロにも及ぶ。ドイツでは全長四千九百キロもある長距離歩行路の一部を歩いたことがある。この道は、北はスウェーデンに始まり、デンマーク、ドイツ、スイスを経てイタリア半島の中部に達する。ヨーロッパ・ランブラーズ協会は現在このような長距離歩行路を十一ルート公認している。ここに紹介したルートはその1号線でE1と呼ばれており、EuropeanRamblersAssociationのホームページでその概要を見ることができる(少し長い散歩を現在ではwalkingと呼んでいるが、伝統的に英語ではramblingで、米語ではhikingを使う)。スイスのチロル地方では山に登る人だけでなく、山を眺めながら歩く観光客を世界中から集めており、観光立国らしく立派な歩行路標識が整備されている。スイスのウオーキングで使われるスキーのストックのような二本杖が近年日本にも入ってきた。このようなウオーキングの流行の歴史をさかのぼると、約二百年前の英国に行きつくだろう。ウオーキング文化の誕生宗教的巡礼の歩行とは別に、一八世紀後半に英国で始まった自然の中を楽しんで歩く歩行の習慣の原因にはさまざまな説があるが、三つの大きな原因が考えられている。英国に学ぶフットパスの歴史とその魅力市村 操一東京成徳大学大学院 心理学研究科長 教授広がれ日本のフットパス ここ数年、中高年を中心にウオーキングブームが続いています。昨今よく聞かれるようになった「フットパス」とは、森林や田園地帯、古い町並みを楽しみながら歩く小こ径みちのこと。今号では、発祥地である英国のフットパス発達の歴史、地域活性化・観光振興を目的としたフットパスの活用を目指す国内の活動などを紹介します。特集◆広がれ日本のフットパス一つは、産業革命に伴う道路の整備である。これによって英国人は長距離の徒歩旅行を楽しいものとして経験できるようになっていった。二つめは、自然科学の発達である。自然の観察、とりわけ植物観察を趣味とする人たちの日曜の午後の逍しょう遥ようが一つの流行となった。三つめは、英国ロマン主義文学の隆盛である。レイク・ディストリクト(湖水地方)に住んだ詩人ワーズワースなどの自然の賛美と長距離ウオーキングの習慣は多くの人の心をとらえた。一八二〇年代にはイングランド北部の都市、ヨークやマンチェスターに長距離の散歩を楽しむランブラーの団体が組織されはじめた。このようなウオーキング愛好の精神は、明治の日本にも入ってくる。一九〇一年(明治三十四年)には国木田独歩は『武蔵野』を発表し、自然の中を無為に散策する楽しみを描いた。島崎藤村も一九一二年(明治四十五年)『千曲川のスケッチ』で同じように自然の中の逍遥を描いている。彼らはともに英国ロマン主義の影響を受けた作家であった。昭和の初期にはハイキングブームが起こっている。雑誌『ハイキング』が一九三二年(昭和七年)に刊行され戦時中の一九四三年まで続いている。一九三五年(昭和十年)発表の川端康成の「雪国」の中でハイキングという言葉が日本の文学作品で初めて使われた。当時は日本の重工業が発展し、東京の西の郊外には高給取りの会社員の住宅地が広がり始め、休日には高尾山や秩父の山々に出かける余暇活動が現れるようになった。鉄道会社は那須高原や軽井沢や尾瀬や日本アルプスへハイキング客を勧誘するようにもなった。英国の場合も日本の場合も、長距離歩行を余暇の楽しい習慣として発展させた背景には、人々の自然を求める気持ちとそれを実現させる社会的基盤があったと考えられる。英国の場合は道路の整備であり、日本の場合は鉄道網の発展であったろう。欧州長距離パススイスのフットパスの標識の下で地図を確かめる歩行者ゴルファーに優先する散歩者英国は現在のウオーキング文化の発祥の地であると同時に、現代のウオーキング王国と見ることができよう。英国人の余暇スポーツの参加率では水泳やゴルフを圧倒的に引き離して一位である。また、国民のウオーキングの楽しみを支える社会的基盤は極めてよく整備されている。その一つに“フットパス”(footpath)として知られる歩行路の整備がある。筆者がこのフットパスの存在を知ったのは、スコットランドのゴルフ場でゴルフをしているときであった。ティーインググラウンドの前の砂利道を普段着の高校生ぐらいの女性が二人のんびりと歩いていた。キャディが「あの人たちの通り過ぎるのを待ってください。あの人たちに優先権があります。ここはフットパスですから」とわれわれプレーヤーを制止した。全英オープンの舞台であるセントアンドルーズ・オールドコースのインコースの外側にも“PublicFootpath”の標識が立っている。散歩者が海辺へ出ていく道である。ゴルファーは散歩者がいないことを確認しなければならない。この散歩者優先の文化は新鮮に感じられた。労働者の「歩く権利の要求」現在の英国のフットパスは麦畑の中を通り、農家の果樹園を横切り、森林の管理道路を借用し、動物を刺激しないようにして牧場に入り込み、鉄道の廃線跡を利用し、一般の道路の一部も路線に組み入れてしまう。つまり私有地への侵入を含んでいて、一定の条件のもとで、私有地へのランブラーの侵入は法律で保障されている。このような歩行路にはいくつかの種類があり、馬も入れる道や自転車が通れる道もある。それらを総称して「公共権利通路」(publicrightofway)と呼ばれている。英国のフットパスは土木工事でつくるというよりは法律で通行権を保障する方法でつくられる。これに関する法律はイングランドとスコットランド麦畑の中のフットパス廃線跡のフットパス特集◆広がれ日本のフットパスでは違っていて、イングランドのほうがランブラーの権利が強いようである。英国全土を網羅するフットパスの地図はどこの本屋さんにも、駅の売店にも、観光案内所にもある。北イングランドのフットパスを歩いていたときに農家の柵に突き当たったことがあった。そこには、次のような掲示板が打ちつけられていた。「お願い。私どもの果樹園を通るパブリック・フットパスへようこそ。でも、どうか、私どものプライバシーを尊重してください。サイクリング、ピクニック、生徒の団体はお断りいたします」スコットランドではこれとは対照的な状況を経験した。エディンバラの東部の海岸を東へ向かって歩いたことがある。地図には“CoastalWalk=海岸歩行路”と記されていた。その道は車の往来する普通の道路で、海側に歩道がついていて、そこからは五百メートルほど先に海岸が見下ろせた。しかし、道路と海岸のあいだにはジャガイモ畑が延々と続いていた。ときおり農道が海岸へ向かって入っていくが、例外なく“進入禁止”(Notrespass)の表示が出ていた。農場への私道である。水田と違ってジャガイモ畑には畔あぜ道みちがない。私は二時間近く海を眺めながら歩き続けた。これは十年ほど前の経験だが、その後スコットランドの地主たちの態度も柔軟になったという話を聞いている。このような、誰でもが自由に歩ける歩行路の整備のきっかけは、マンチェスターの労働者の国土を自由に歩く権利の獲得運動であった。英国のウオーキングの伝統は、中産階層の紳士たちの傘を片手にした優雅な公園の散歩の延長線上にあるのではなく、健康的なレジャーの場を要求した労働者階層の権利闘争の流れの上にあるといえる。一九三二年の春の晴れた日曜日の朝、マンチェスターの労働者四百名が町の東にある「キンダースカウト」と呼ばれる荒れ地の丘陵に強行侵入する事件が起こる。この荒れ地は地主が雷鳥の狩り場として一般市民の散策を禁止していた。その私有地に労働者たちが「散歩する権利」を主張して侵入したのであった。その後、この問題は国会でも取り上げられるようになり、一九四九年には国立公園・アクセス法ができる