西安の紹介西安は昔長安と呼ばれ、中国の七大古都の中でも最も古い街です。現在は陜西省の省都で総人口、約800万人、そのうち市街区の人口約430万人、総面積は9983平方kmであり、中国西部地区の中心都市です。また、西安はシルクロードの起点という役割を果たし、西方の物、文化が中国に伝わり、中国の茶や磁器が西方に伝わりました。西方からも多くの人が長安(西安)を訪れ、国際色豊かな都市になりました。唐代の西安(長安)は世界の5大都市にも数えられたそうです。現在の西安は、渭河平原周辺に多数分布する歴史遺跡や、南部にそびえる秦嶺(しんれい/チンリン)山脈の美しい自然を観光資源として、中国有数の文化観光都市となっている。また西北地方への入口にあって、陝西のみならず西北全体の中心都市でもあり、機械・繊維などの軽工業に加え、最近は石油化学などの重工業開発も進められている。地理西安は中国関中平原の中部に位置し、北に渭水が東西に流れ、南は秦嶺山脈が東西に走っています。西安の気候は温帯大陸性気候で、年間の四季がはっきり分かれ、年平均気温は十三度、年間降水量は604.2ミリ、年間日照時間は2000時間です。温和な気候と自然環境に恵まれた土地であり、原始先住民族の生息と反映にとって理想的な土地でもあったのです。歴史西安は周秦時代から全国の政治、経済、文化の中心となりました。紀元前三世紀より、西周、秦。西漢、新莽、西晋、前趙、大夏、後秦、西魏、北周、隋、唐など、十三の王朝がここに都を置きました。西安はその独自の歴史的地位により、古代ローマ、アテネ、カイロとともに世界四大文明古都と称されています。また、西安は「シルクロード」の基点であり、昔から中国が世界各国と経済・文化交流をおこなう重要な都市でもありました。中国と日本は一衣帯水の隣国であり交流の歴史は古く、唐時代には、日本はたびたび留学生と留学僧を含む遣唐使を長安に派遣しました。阿倍仲麻呂は長安に54年も住み宗教と文化の伝播と日中両国の友好のために貢献しました。日本の僧侶空海は青龍寺で密教の法を受け、密教文化を一心に学び、漢学の研究においても造詣は非常に深いものであったといわれています。2004年に西安で遣唐使・井真成の墓誌が発見され中日両国でおおきな話題となりました。遣唐使に関する研究のあらたな発展が期待されています。西安の古称は長安であり、かつては西都、西京、大興、京兆、奉元等とも称された。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十数の王朝の都として千年の歴史を有す古都である。1369年(洪武2年)、明朝は元朝の奉元路を廃止し西安府を設置、これが西安の名称の初見である・明末の李自成の反乱に際しては、西安に入城した李自成は一時長安と改称したが、清朝により再び西安と改称され中華民国まで沿襲された。1928年、西安に初めて市制が施行され省轄市としての西安市が成立した。1948年には国民政府行政院轄市に改編、中華人民共和国成立後は陝甘寧辺区轄市、西北行政区轄市、中央直轄市、計画単列市と改編が続き、1954年に陝西省都、副省級市となり現在に至っている。1898年の義和団の乱では西太后ら皇族が戦火の北京を逃れ西安に避難している。また1936年には国共合作による日本政府への対抗を目指す張学良が蒋介石を軟禁した西安事件の舞台となった都市でもある。阿倍仲麻呂文武二年(698)大和の国に生まれた。奈良時代の人。19歳で遣唐使として中国に渡り,入唐後,太学(上級身分の子弟の最高教育機関)で学び,日本人でありながら,超難関の科挙の試験に合格をする。そして唐の高等官として,国立図書館長などと高い地位に昇進していく。皇帝・玄宗(唐の6代目皇帝の目にとまる所となり,厚い信任を得ることとなる。皇帝はその学才を惜しんで,帰郷をなかなか許さなかった。和歌は,古今集,百人一首にあるがこれ一首のみが知られ,中国で詠まれたとされる。百人一首では「安倍仲麿」と書かれることが多いが,阿倍仲麻呂が正しい。阿倍仲麻呂は長安に54年も住み宗教と文化の伝播と日中両国の友好のために貢献しました。科挙にも合格し、長安で出世しましたが、望郷の念を抱き帰国しようとした際、台風で帰国できず、再び長安に戻り、結局一生帰国できませんでした。西安の興慶宮公園には彼の記念碑には友人の李白が彼の死の際送った詩が彫られています。観光ガイド西安はその歴史的位置から文化遺産がいたるところに見られます。重要文物遺跡が314ヶ所、国家級、省級の重要文物遺跡が84ヶ所、博物館と記念館が約20ヶ所、遺跡や陵墓が約4000ヶ所、出土した文物は約12万点あります。市内には阿倍仲麻呂の記念碑や空海記念堂もあります。西安は兵馬俑、華清池、碑林、大雁塔、小雁塔、鍾鼓楼など無数の歴史遺産、秦嶺山脈など中国西北部の雄大な自然風景、また、伝統的な民族風情等などで独特の観光資源を構成し、世界的に有名な観光都市として外国人観光客を引きつけています。さらに、今日の西安は観光都市としてだけではなくハイテク科技園、衛星観測コントロールセンターなど近代都市として限り無い魅力を形づくっています。また、ソフトウェア産業都市の顔も持っています。「ソフトウェア」の語源はシルクロードを通ってヨーロッパに運ばれた絹の服に由来します。当時のヨーロッパ人は絹の服をことを「軟らかい服」、即ち「ソフトウェア」と呼びました。つまり、「ソフトウェア」のルーツは西安にあります。古都西安、古代文明とハイテク技術に輝く東洋の真珠・西安にようこそ。西安の観光地域西安の観光地は大きく分けて、東線、西線、南線、市内の4つに分かれます。それぞれ主要な所だけを見て回ったとしても丸1日かかってしまいます。それぞれの線の主要観光地は以下の通りです。■東線・・・・・・・兵馬俑、始皇帝陵、華清池など■西線・・・・・・・法門寺、乾陵、昭陵、茂陵など■南線・・・・・・・興教寺、香草寺、草堂寺など■市街地・・・・・・・大雁塔、小雁塔、鐘鼓楼、青龍寺などそれぞれ非常に隔れていますので、もし、個人で西安を訪れようと思っていて、東線と西線の観光スポットを同日に訪れるような計画を立てていたなら、見直したほうがいいかもしれません。西安の観光スポットは非常に多いので、4つの地域に分けてご紹介いたします。西安東線西安旅行のハイライト地域です。世界遺産に登録されている始皇帝陵や兵馬俑、玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスで有名な華清池等があり、西安に観光目的で訪れるほとんどの方がこの地域を訪れます。兵馬俑博物館兵馬俑は世界遺産で、西安最大の観光地です。1974年に発見され、1979年には兵馬俑博物館が建設され、1987年にユネスコの世界文化遺産に登録されました西安観光の超目玉です。秦の始皇帝の魂を守るために作られたと言われています。1974年に井戸を掘っていた農民によって発見されましたが、この地域では昔から水を枯らす化け物が地下にいるという伝説があり、その存在は薄々とは知られていたようです。8000体あるという兵士や馬の焼き物は、どれ一つ同じ顔をしたものは無いというほど緻密に作られています。また、等身大で、がっしりした体つきをしています。酒好きだったという秦代の人のお腹が少し出ていたとこまで見て取れます。2千数百年前にこれだけのものを作った労力を想像すると、やはり始皇帝の権力がいかに強大だったか分かります。始皇帝陵秦始皇帝の陵墓。始皇帝が13歳で即位して50歳で死去するまの37年をかけて作られました。内部には沢山の財宝が眠っていると言われていますが、様々な盗掘防止の仕掛けがあり、今も発掘はされていません。陵墓の上からは西安ののどかな農村風景が眺められます。華清池西周時代にここで温泉の湯元が発見されました。歴代の王朝はここに離宮を造り、帝王たちが享楽に耽りました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の話は有名で、毎年冬になるとここの華清宮に住み、楊貴妃専用の海棠湯、蓮花湯で寛ぎました。鴻門宴遺祉始皇帝の死後天下を争っていた項羽と劉邦が宴を開いた場所です。宴席で項羽は劉邦の暗殺を企みましたが未遂に終わりました。半坡博物館1953年に発掘された約6000年前の母系氏族社会の村落遺跡です。居住地、公共墓地、陶器製造所があります。西安西線西安の西線はアショカ王から仏教の仏法を広げるために各地に送った仏舎利(お釈迦様の骨)が見学できる法門寺や唐代の高宗と則天武后の合葬墓である乾陵等に代表される観光スポットが数多くあります。しかし、各観光スポットへのアクセスは非常に不便で、公共の交通機関を利用しての観光は困難です。しかし、東線にも負けないくらいの見ごたえのある史跡が多いので、ぜひ一度訪れることをお勧めします。法門寺インドのアショカ王が送った仏舎利が安置されているお寺です。北周の武帝以前は阿育王(アショカ王)寺という名前でした。既に1800年以上の歴史を持つお寺です。唐王朝の8人の帝王は何回も、仏舎利を皇居に迎えて供養し、多くの宝物を法門寺の地下宮殿に賜って奉納していました。1987年に明代に再建された塔を立て直した際、偶然唐代に封印された地宮が発見され、そこから仏舎利と数々のガラス器、金銀器などの財宝が出土しました。現在法門寺では、この仏舎利を見学することが出来ます。また隣接する博物館では数々の地宮の出土品や仏舎利が収められていた八重の箱などを見学できます。乾陵唐3代皇帝高宗(李治和)とその皇后で唯一の女帝則天武后の合葬墓です。唐代18陵と呼ばれる陵墓の中で一番保存状態の良いものです。ここでぜひご覧頂きたいのは、無字碑と首の切られた六十一蕃臣像です。無字碑は文字通り、何も刻まれていない石碑で、これには自分の功績は後世の人が決めるという説と、自分の功績は言葉で表すことが出来ないという説があります。六十一蕃臣像は高宗の葬儀に参加した外国の使節ということですが、なぜ首が切り落とされたかは、様々な説がありよく分かっていないそうです。昭陵「貞観の治」と言われる唐の最盛期時代を作った2代皇帝太宗(李世民)とその皇后の陵墓です。太宗皇帝の時代の唐は世界でもベスト3に入る繁栄ぶりでしたが、残念ながら彼らの陵墓は侵食と盗掘によって原形をとどめていません。茂陵博物館武帝の愛した武将霍去病の陵墓を中心に4000点以上の文化財を展示する博物館です。必見は天然石を生かした動物の石刻。中国の彫刻の初期作品で、匈奴を踏む馬、臥牛など前漢期の傑作がそろっています。楊貴妃墓玄宗皇帝に愛された楊貴妃のお墓です。玄宗皇帝は楊貴妃の従兄の楊国忠に政治を任せきりにし、楊国忠は自らの名声を上げようと躍起になり、社会は乱れました。そのために安禄山による安史の乱がおこり、玄宗や楊国忠、楊貴妃が長安を逃げ出した際、楊国忠を恨んでいた兵士達は彼を殺し、さらに兵士達は玄宗に対して楊貴妃を殺害することを要求したため、玄宗はやむなく楊貴妃をこの馬嵬で縊死(首吊り)させました。西安南線西安南線の主な観光は点在する名刹巡りとなります。玄奘三蔵の遺骨が埋葬される興教寺、浄土宗発祥の寺として名高い香積寺、クチャ出身の鳩摩羅什がサンスクリットの仏典を翻訳した草堂寺がおもな見どころとなります。興教寺玄奘三蔵の遺骨が埋葬されているお寺です。木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼などの伽藍があり、佇まいは美しいです。香積寺706年、浄土宗の門徒が2代祖師善導和尚を記念して建立した仏教寺院で、浄土宗発祥の地として有名です。境内には善導法師の舎利塔があります。草堂寺クチャ出身の名僧九摩羅什がこのお寺でサンスクリット語の仏典を翻訳しました。中国で初めて大量の仏典が作られたところです。西安市街エリア古都西安は市街地にも三蔵法師がインドより持ち帰った仏典を翻訳するために建てられた大雁塔、弘法大師空海の修行した青龍寺など多くの見どころがあります。西安の西門はシルクロードの起点としても有名で、西門に登り遥か昔の旅人に思いを寄せて