日语综合教程第六册第三课-水の东西

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第六册第三課水の東西——山崎正和山崎正和『ししおどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生のけだるさようなものを感じることがある。可愛らしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まるながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。見ていると、単純な、ゆるやかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、『ししおどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調しているといえる。私はこの『ししおどし』を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心をひきつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しい過ぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聞くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。流れる水と、噴き上げる水。そういえばヨーロツバでもアメリカでも、町の広場にはいたるところに見事な噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水は様様な趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添え物にすぎす、壮大な水の造型がとごろきながら林立しているのにわたしは息を呑んだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間に静止しているように見えた。時間的な水、空間的な水。そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものはど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたといういこともあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を造らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したり捻じ曲げたり、粘土のように造型する対像ではなかったのであろう。いうまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という佛教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現われではなかっただろうか。見えない水と、目に見える水。もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『ししおどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。水的东西观看到“竹筒敲石”的运动,常常不由得感到:在她那可爱之中,还有如人生的倦怠懒散之类的东西。小巧玲珑的压板一端装着接水斗,空中的引水筒一点点地在接水斗里积多,在安静中紧张度逐渐地高涨,不久水斗里水满了,压板呼啦一下倾倒过来倒出水,紧张一下子被释放掉,接水斗又被弹起,竹子敲到石头上发出“梆——”的一声,浑厚而优美。看上去单纯而缓慢的旋律,无限制重复下去。紧张度高涨,可是一下子被释放,然后无所事事的徒劳感又从头开始。只有那低沉的声音在报知时光的流逝,使人越发觉得庭院的寂静和时间的漫长。是水的流动,还是时间的流动,“竹筒敲石”使我们感觉到流动的东西。可以说,通过对这种流动的阻断和分割,该装置反而在强调着流动不止的某种存在。我在纽约的大银行休息室里见过这种“竹筒敲石”。在被介绍的各种各样的日本古老文化中,这个简朴的竹子的响声,或许是吸引西洋人的心灵的东西。不过,在纽约的银行里人们过于匆忙,似乎不太有听完两次敲石声之间漫长间隔的惬意。比起这个来,窗外喷涌的华丽的喷泉,在这里更能作为水的艺术,令人的心情明显地得到放松。流动的水,喷涌的水。说起来,欧洲也好,美洲也好,城市的广场上到处可见美妙无比的喷泉。只要去颇有名气的庭院,就会看到独具匠心的喷泉,成为其风景的中心。有名的罗马郊外埃斯特家的别墅等建筑,被数百个喷泉群落填满了。花草树木在这里只不过是点缀而已,而壮观而轰鸣的喷水造型到处林立着,使我惊叹不已。它们看上去就像巴洛克的雕塑一样,与其说是喷涌,不如说是更像是静止在发出声响的空间。时间的水,空间的水。就像是很偶然才会考虑到这种事一样,在日本的传统中,像喷泉这样的东西也不多。热衷于制造潺潺水声,人造瀑布,修造水池来观赏水的日本人,直到近代为止都把喷泉之美弃之脑后。传统是很可怕的,即使在现在的都市里,日本的喷泉也还是不及夕阳的美。或许是由于这个原因,如论是东京也好,还是大阪也会,城市中的广场总让人感到呆板沉闷,缺乏表情。也许是因为西洋的空气干燥,人们希望见到喷泉之水吧。也可以认为自罗马以来的自来水技术,对促进喷泉的进步非常有利。可是,制造了人工瀑布的日本人却不造喷泉的缘由,被认为不仅仅是这些外部因素。对日本人来说,水自然流淌的样子是美的,而不是经过压缩和扭曲,像粘土那样成为造型对象的东西。水作为自己来说,并没有固定的形态,对于无形态的东西,日本人也许具有与西洋人不同的独特的喜好。佛教上有句话说“行云流水”,这种思想甚至可以说是被始于思想之前的感性所印证。比起对待外界的被动的态度来,它也许是积极的、不畏惧无形物体的心理体现吧!看不见的水,看得见的水。如果仅仅把感觉流动视为重要的事情的话,那么可以说,我们要实际感受水,就连看水的必要也没有了。只需听听断断续续的响声,把那间隙中流动的东西用心去间接地品味就可以了。这么想的话,也许可以说那个“竹筒敲石”是体现日本人欣赏水的行为的最高境界的装置了吧。水の東西山崎正和『ししおどし』が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生のけだるさようなものを感じることがある。可愛らしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まるながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。見ていると、単純な、ゆるやかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、『ししおどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調しているといえる。私はこの『ししおどし』を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心をひきつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しい過ぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聞くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。流れる水と、噴き上げる水。そういえばヨーロツバでもアメリカでも、町の広場にはいたるところに見事な噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水は様様な趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添え物にすぎす、壮大な水の造型がとごろきながら林立しているのにわたしは息を呑んだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間に静止しているように見えた。時間的な水、空間的な水。そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものはど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたといういこともあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を造らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したり捻じ曲げたり、粘土のように造型する対像ではなかったのであろう。いうまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。『行雲流水』という佛教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現われではなかっただろうか。見えない水と、目に見える水。もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの『ししおどし』は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。

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