三江学院日语专业毕业论文1『伊豆の踊り子』の文学特質を略論するはじめに1968年度ノーベル文学賞受賞者の日本作家川端康成は自身なりの鋭い感覚と優れた創作テクニックで、当時の日本人の精神生活を描き出した。彼はインド詩人クゴールが受賞した後、この栄誉を勝ち取った二番目のアジア人だ。『伊豆の踊り子』は彼の初期の代表作品である。川端康成の受賞した作品『雪国』、『千羽鶴』と『古都』と同じく、芸術として、全世界の文学界の中でも得難い貴重な宝物である。この小説は日本でかつて何回も映画に改作されて、何世代もの若い人は感動させられた。川端康成には数多くの著作がある。その中、長編小説、短編小説、散文、エッセー、講演、評論、詩、日記などを含んでいる。例えば、『浅草紅団』『禽獣』『山の音』『眠れる美女』『水晶幻想』『高原』『哀愁』『東京の人』『富士の初雪』などである。ご存知のように『伊豆の踊り子』が川端の代表作のひとつとして全世界中有名である。中国では『伊豆の踊り子』の訳本を出回って以来、刊行数が百万を超えているようである。川端康城は1918年に『千世代』を創作した8年後、つまり1926年に『伊豆の踊り子』はに『文芸の時代』という雑誌の中に発表されたよく構想し、加工して、最後にとてもすばらしい作品になった。この初期作品の中で、川端の風格はもう現れていたのである。実は川端の文学が最も力強い、最も優れた作品は『伊豆の踊り子』ではなく、『雪の国』なのである。しかし、すべての作家の創作過程は発展しているものだと思うから、私は川端文学の出発点――『伊豆の踊り子』についての分析を通じて、自分の考えと感想を述べたいと思う。本研究は先行研究を踏まえながら、『伊豆の踊り子』の創作特質を整理し、考察した上に、『伊豆の踊り子』における体現の特徴を研究していきたい。さらに、川端文学における特徴、特に表現における特徴を見い出すつもりである。第一章川端康成について川端康成は小説家で、1899年に父栄吉﹑母言の長男として大阪で生まれた。三江学院日语专业毕业论文2数え年二歳の時父が、三歳の時母が死に、孤児となった彼は、祖父母に引き取られ、大阪府三島豊川村に住んだ。七歳の時祖母が、十歳の時には姉が死んだ。以後、川端康成は、祖父と二人きりの生活をするが、十五歳の時祖父もなくなった。府立茨木中学校時代にはすでに習作に努めていた。一高を経て大正九年東大英文科に入学、翌年国文科に変わった。今東光らと第六次『新思潮』を創刊、その二号に載せた『招魂祭一景』で菊池寛らの好意ある批評を受け、文壇の注目を集めた。十二年『文芸春秋』の同人となる。十三年東大卒、十月、当時の新進作家を結集して、『文芸時代』が創刊され、この雑誌を母胎に横光利一らと新感覚派の運動が始まった。当時の創作集『感情装飾』は、意匠、装飾、デザインの新奇さを追求したこの派の代表作品としての実を示している。新感覚派の作家たちは思想的、イデオロギー的に変貌が激しいが、川端だけが変貌せず、深く東方的な虚無思想と東方的な美意識を持続しつつ、『浅草紅団』『雪国』などを書いた。戦争中、当局に迎合しないで、独自の創作仕事を続けていた。敗戦後、「日本の心の美しさ」を希求して、『千羽鹤』『山の音』『古都』などの名作を世に送り出した。昭和三十三年国際ペンクラブ副会長、四十三年ノーベル文学賞を受賞した。受賞記念講演は『美しい日本の私』であった。四十七年自殺。代表作にはまた『禽獣』『虹』『花のワルツ』『眠れる美女』などがある。第二章『伊豆の踊り子』の創作背景及びあらすじ『伊豆に踊り子』を研究する前に、『伊豆踊り子』の創作背景とあらすじを整理する必要がある。第一節創作背景『伊豆の踊り子』は作者が20歳の時に、伊豆で旅行する時の経験を基づいて書いた自伝小説である。作品の主人公「私」は高校時代の川端康成である。この作品の創作背景と言ったら、作者の経験を言わなければならない。作者は2歳の時に父がなくなる、翌年に母もなくなった。それから、姉と祖母も次々と亡くなった。16歳の時に、唯一の頼り---失明した祖父も亡くなった。そして小さい時から体が弱くて多病な川端は長い時間に家の中で居る、全然外出かけなく、非常に敏感な心理になった。家族が次々と亡くなったことを経験した彼三江学院日语专业毕业论文3は「孤児根性」「恩恵を受ける根性」のような偏屈な性格になった。このような性格とその性格による窒息する憂鬱情緒は、東京の騒ぎと明らかに違っている。この重苦しい情緒の中から脱走したいために、作者は伊豆の旅に足を踏み出した。川端は『少年1』の中で次のように書いてある「私は自分の心の中の奇形を感じれば、自分をこの奇形から抜け出すのは難しいほどと思う。私は自分の少年時代、そして今までも治してない精神的な病患が大嫌いだ。自分を憐れみながら、自分を憎悪する気持ちも嫌がってたまらない。そのため伊豆へ行くことを決めたんだ。」それで、伊豆の旅は一体彼の精神的な病患を癒したかどうか?作者は途中で、14歳の踊り子と会った。彼女の純粋さと美しい顔に引きつけられ、知らずに踊り子一行の巡回公演の芸人たちに連れ立って、途中に修善寺、湯島、湯野を経由して、伊豆本島の南端の下田で、名残惜しんで踊り子と別れた。この中の経歴は後に『伊豆の踊り子』の内容の源となる。「孤児根性」を持っている「私」は始めて責任と恩恵がないところに来た。初めて踊り子一行に、普通の人と同じく、平等に扱われた。そして、踊り子に褒められた、思わずに彼女たちが好きになった。同様に、社会地位が低い、人に苛められる芸人たちが優しい「私」と会って、初めて友好に扱われ、だんだん「私」の親切を感じるようになった。ある意味で、『伊豆の踊り子』は作者がいろいろ失敗した後の過去のいい思い出であると言えるだろう。「伊豆の旅」はただ一つの旅ではなく、踊りの子の純粋な感情で作者の心の傷を癒した過程とも言えると私は思う。第二節あらすじ伊豆の旅に出た一高生の「私」は、天城峠で出会った踊り子の清純な姿にひかれ、その旅芸人の一行と下田まで道づれとなる。瞳の美しい薫という名の踊り子は14歳、おとなびて見えるため、「私」は踊り子の今夜が汚れてしまうのではないかと、眠れぬ夜を過ごす。しかし、翌朝、湯から裸で飛び出して手を振る踊り子の子供っぽさに、「私」は心に清水を感じて微笑する。孤児根性で歪んだ私も、踊り子に「いい人ね」と言われて、心が澄み渡る。旅費の尽きた1川端康成の自伝小説。三江学院日语专业毕业论文4「私」は、下田で踊り子と別れて船に乗り、別離の感傷に浸りぽろぽろと涙をこぼした。第三章『伊豆の踊り子』における創作の特徴それで、作者はどのようにこの癒す過程を記述したのか、私は主に次の4つの点から分析しようとすることにした。第一節自然の景色文学作品は決してただ自然の風物を描くはずがなく、きっと登場人物そのものの思想や感情や精神などを自然の中に注ぎ込むのである。「物」が「私」となる、あるいは「私」が「物」となる、「物」と「私」を一体化させる境界に達しているのである。この小説は景色の描写から書いたのである。これも川端文学の大きな特色の一つであろう。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」非常に詩的な冒頭である。物語はまだ始まってないうちに、直接に「雨脚が杉の密林を白く染める」という印象を与えてくれた。これで、読者は小説の雰囲気にのって、雨の世界に入り、伊豆の旅が始まった。これは絶対に、川端康成なりの優れた創作の技だとしか言えない。続いては、「重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも」。「私」「胸をときめかして」。「私」は景色の美しさを見る余裕が全然なかった。なぜなのか、その理由は作者がすぐ答えた。「一つの期待にて道を急いでいるのだった」、「あまりに期待がみごとに的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ」。作者は「私」が踊り子と会いたい焦る気持ちをびくびく動く心とあわただしい足どりを通じて、含蓄的に現した。「私」の恥ずかしさとじっれたい心の気持ちを書き表した。こんなに美しい景色を描写するのは、実際に作者は切実に芸人の一行、特に踊り子と会う気持ちを引き立たせるのである。それは直接に人の気持ちを描写するよりもいっそう説得力があるのであろう。「タ暮れからひどい雨になった。山々の姿が遠近を失って白く染まり、前の小川が見る見る黄色く濁って音を高めた。こんな雨では踊子たち……」普通人三江学院日语专业毕业论文5はこのような景色を見たら、気持ち悪くなるだろう。まして何かを考えているような「私」だった。このような景色を書くのは、実は「私」の気持ちがこの景色と同じく焦って落ち着かない気持ち、踊り子と会いたい期待を物語っているのである。続いては、「雨が上がって、月が出た。雨に洗われた秋の夜がさえざえと明るんだ」。心を晴々とさせる秋の夜、思わずに心の中のことが思い出された。このような景色を描くのは、実際に作者その時の気持ち、踊り子に対する秋夜のような純粋な感情を表すのである。「湯野を出はずれると、また山に入った。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私たちは朝日のほうを眺めていた。河津川の行く手に河津の浜が明るく開けていた……秋空が晴れ過ぎたためか、日に近い海は春のようにかすんでいた……」小説の冒頭は秋だとはっきり言った、ここで突然「春のようにかすんでいた」と言う。この時の作者は気持ちよく、自然の景色も美しくなったような感じがして、急に秋から春に変わったようだ。その原因は、踊り子と一緒に居るのはとても楽しいのである。場合によっては景色が人の感情を表すことが出来る。景色は直接に「私」の気持ちを私たちに伝えてくれた。「相模灘は波が高かった。すわっていると、時々左右に倒れた」。極普通な描写であるが、別れた時の「私」の内心の苦痛とぴったりしているものだった。最後の部分には「船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮のにおいが強くなった。まっくらな中で少年の体温に温まりながら……」。この描写を通じて、作者の困惑、内心の矛盾、そして未来への彷徨を表した。この作品で、作者は伊豆の美しい景色を生き生きと描写している。彼は自身の感情が伊豆の景色と一つになるように、自然の美と人物の気持ちをしっかりと結び付けおり、景物を人間化させ、伊豆の秋は作者の内心の悲しい情緒を書き表した。また作者は伊豆の秋の美しい景色でこの作品にある深い情緒を表現し、この純粋的、感傷的な愛情のためいい雰囲気を作り出した。作品の中で、作者が洗練された筆致で大自然の静かさ、美しさを描写して、そして自然な色調と雰囲気を通じて、人物の活動と心理活動に引き立たせた。三江学院日语专业毕业论文6第二節人物の心理人類の意識の海洋の中で、心理活動は深いものとして、簡単に分かるものではない。そして、現代心理学の研究によれば、人の心理の変化はずっと変わっていて、無意識的、無理的なものである。そのため、文章に書き表している登場人物は、凄く難しいものである。そこで、隠喩、暗示、象徴、連想などの手法を運用して、変幻極まりない自然風物の描写を通じて人物の心理の外も裏も読者に見せるのは、とても大事なことになるのであろう。川端康成は人の心理を描写することに優れている。例えば、ずっと「私」に好感を持っている踊り子は「私」にお茶を運んだ場面がある。「踊子が下から茶を運んで来た。私の前にすわると、真紅になりながら手をぶるぶる震わせるので茶碗が茶托から落ちかかり、落とすまいと畳に置く拍子に茶をこぼしてしまった。あまりにひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた。」作者は踊り子の一連のそわそわした動きを通じて、踊り子の少女の恥ずかしそうなことと異性に意識している時の表情を紙に生き生きと書き表している。更に、「私」と踊り子は山中で歩く場面の描写も巧妙だ。「踊子が一人裾を高く