日本人の食文化史2012.3.12.

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日本文化史魯東大学外国語学院中日伝統文化比較研究所王曉東博士2012.3.12.日本人の食文化史目次一、縄文・弥生・古墳時代二、飛鳥時代(592年~710年)三、奈良平安時代四、鎌倉時代~室町時代五、安土桃山~江戸時代六、明治・大正・昭和・平成《日本书纪》卷第七景行天皇五十三年……冬十月、至上总国、从海路渡淡水门。是时、闻觉贺鸟之声。欲见其鸟形、寻而出海中。仍得白蛤。于是、膳臣远祖名磐鹿六雁、以蒲为手繦、白蛤为脍而进之。故美六鴈臣之功、而赐膳大伴部。一、縄文・弥生・古墳時代1.縄文時代(約6000年前~前1200年頃)特徴自然物を採取したりして、生で食べる。食べ物食用植物:クルミ・トチ・クリ・ドングリなどの堅果類や、クズ・ワラビ・ヤマノイモ・ウバユリなどの野生のイモ類を中心とする野生植物群食用動物:魚介類、熊、鹿、猪、狸、狐、兎など縄文時代2.弥生・古墳時代(紀元前後~7世紀)特徴水稲耕作をはじめとする農業の始まり食べ物米をはじめとする穀物を主要な食料の一つとする食生活が開始された小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀が栽培されていた魏志倭人伝には倭人の食生活について「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」「人々は生来酒が好きである」と書かれている。弥生時代古墳時代には大陸からの帰化人により高度な農法、鉄製農具、牛馬の利用がおこなわれ稲作の苗代が取り入れられている。マクワ瓜、ヒサゴ(瓢)、コムギ、大麦、アワ、ヒエ、ソバ、キビ、マメ、ニラ、ヒル、アオナ、オオネ(大根)、モモ、果実、野菜の栽培が行なわれるようになってきている。醸造法の輸入で濁酒(だくしゅ)が飲まれていた二、飛鳥時代(592年~710年)飛鳥時代には大和政権から律令国家へ進行に伴って、身分の差が次第に大きくなく、食事にもその差別が窺れる。身分の高い人の食事になると、魚やほし肉などがつき、その食事の種類も豊富になった。その食事の内容としては、玄米、いわし、かぶの酢のもの、きゅうりの塩づけ、みそしる、お酒などであった。飛鳥時代の食事一般人の食事身分の高い人の食事三、奈良平安時代この時代の社会的特徴としては皇族・貴族と庶民の階級に分かれることと、遣唐使など中国の影響を受けることがある。1.奈良時代(710年~794年)貴族と僧侶が確立した食事作法が芽生始めたと考えられる奈良時代の特色としては、貴族食と庶民食の区別がはっきりとあらわれてきたことにある。貴族は米を常食としていたのに対し、庶民は租米(税)のあまりはほとんどなく、雑穀(粟・稗)を主食としていた。貴族の食べ物:うに,かに,貝,かつお,あゆ,くえ,さざえ,そうめん,牛乳でたいたおかゆなど,さまざまな料理が出された。奈良・平安時代の食事皇族や貴族の特別な日の食事皇族や貴族の普段の食事庶民の食事2.平安時代(794年~1192年)貴族の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美をより尊重し、見る料理を育成することになった。この形式的食生活は、日本食の性格を後世にまで規制する源泉ともなった。一方で奈良時代から上層階級で用いられてきた牛乳や乳製品はますます多く用いられたが、貴族階級の衰退や宮廷の財政難、度々の戦乱と武家勢力の台頭などにより、入手は少なくなって、肉食を禁止していたことも相まって体格の発達を著しく阻害する結果となった。また庶民の食生活はまだ仏教信仰による戒律は知らず、山野の野獣を捕らえて食していた。主食として食べられていたであろう穀類には、稲類、麦類(大麦、小麦、カラスムギ)、アワ、キビ、ヒエなどがある。料理という言葉は平安時代すでに用いられていた。そして料理人のことを庖丁といった。料理法には、膾のようななまもの、蒸もの、茹もの、煮物、こごり、焼もの、吸もの、あえもの、干物、漬物などがある。【七種粥ななくさかゆ】平安時代,正月15日には粥を食べる行事があった。七種粥の材料には米,あわ,きび,ひえ,ごま,あずき,塩を用いる。【いのこもち】10月の亥の日にもちを食べると,病気にならないとか,子孫が栄えるとかいっぱんにいわれていた。このもちを「亥の子もち」という。材料は,だいず,あずき,ささげ,ごま,くり,かき,水あめ,もち米を用いる。【ちまき】5月5日は端午の節供といわれ,この日には,ちまきをそなえ,これを食べて,健康を祝った。ちまきは,もち米を葉で包んだ食べ物である。材料は,もち米,ささげ,竹の皮,灰汁を用いる。四、鎌倉時代~室町時代平安時代の貴族、僧侶といった上流階級は形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止した結果、食品の種類はかたより不健康な食風であった。武家の世となると玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がる。平家の衰亡を教訓として質素倹約に努め、栄養価の高い食生活である。平安時代と比べると簡素な食風であるが実際的で健康な食生活に変化していった。武士の食事鎌倉室町時代の食事この時代は食材が多様化し、近代まで日本人が食してきた材料がほぼ出揃う。また調味料や料理技術も進歩して生物、汁物、煮物、煎り物、炙り物、蒸し物、漬物といった「和食」の基本的なカテゴリーが生まれ、料理の専門家、流派が登場した。鎌倉時代に、僧侶たちにより植物性の素材だけを使った「精進料理(しょうじんりょうり)」が生まれ、室町時代には貴族(公家)と武家の食文化が融合した「本膳料理(ほんぜんりょうり)」が誕生した。精進料理本膳料理五、安土桃山~江戸時代それまで輸入と言えば主に中国からだったものが、南蛮、つまりヨーロッパと東南アジアからの食材が入ってきった。料理法でも、油で揚げるという手法が伝わる。また、食事の形式でも、信長はそれまでの形式を無視し、秀吉が保護した茶の湯の中から懐石料理(かいせきりょうり)という形が表れる。つまり、和食に於ける食材、料理法、食事形式の原型が揃う時代が安土桃山というわけである。懐石料理米の炊き方の確立実は今のような米の炊き方が確立したのは江戸時代である。調味料の確立江戸時代になって本格的に醤油が使われるようになる。それまで調味料と言えば、塩、味噌、酢であった。また、砂糖、昆布、鰹節が現れる。多くが専門メーカーによって作られ市場に流通して行く。外来の食物西瓜、南瓜、玉葱、唐辛子、甘藷、ジャガイモ、トマト、ほうれん草、葡萄、南京豆、イチジク、バナナ外食産業の登場江戸は新しい都市で、多くの労働者を集めた。そのため男女比率が圧倒的に男子の方が多かったのである。18世紀中頃から、彼らに食事を提供する飯屋、居酒屋、屋台が登場する。その中から、現代の和食専門店の原型である鰻屋、饂飩屋、蕎麦屋、寿司屋が現れた。19世紀、幕末の頃には料理屋が発達し、現在の料亭に繋がる形式が出てきった。懐石料理から会席料理へ安土桃山に現れた懐石料理は、茶会から離れて会席料理へと発展していく。堅苦しい本膳料理ではなく、もっと気楽に酒を飲みながら楽しむ料理である。江戸時代を通じて、今、和食と呼ばれる様式の基本は完成した。会席料理六、明治・大正・昭和・平成西洋料理が移入され、上流階級と知識人を中心に浸透、さらには和洋折衷である洋食が生まれる。しかし、洋食の普及は上流階級や都市部に限られ、庶民の日常の食事は和食が大半であり、特に農村部や貧困層の食生活においては、その影響を与えていないような時代であった。洋食は江戸時代に長崎で行われていたが、幕末になると洋食に接する機会が増えた。明治維新前後になると、洋食は開花の食事として上流階級・知識人を中心に、食べる人々が多くなった。牛肉食は文明開化の象徴とされ、牛肉を食べないものは文明人でないというような風潮から、肉食は、まずは牛肉食としてそのまま取り入れられが、やがて日本古来の調理法を応用し、牛鍋、いわゆる「すき焼き」としてアレンジされ、流行した。西洋料理の調理技術が日本的に再編成され、フライ・油料理・牛豚料理など、西洋風の新しい作り方を紹介する雑誌も登場し、料理雑誌の紙面の過半を占めるようになる。家庭料理の中にも洋食が少しずつ浸透し始めるが、この時代、洋食の普及を牽引していったのは、外食としての洋食だった。都市化が進む中で、大衆食堂を中心に、全国に洋食が普及していく。外食産業の発達貧困が消滅した言われる1970年は、「外食元年」と呼ばれた年である。この年以降、ファミリーレストランやファーストフード店が、続々と登場し、日本人の食生活を大きく塗り替えていった。コンビニの登場1970年代以降、日本人の生活環境の変化により適応する形で、74~75年に登場したのが、コンビニであった。その後コンビニは、より生活に密着する形で、店舗を拡大し、サービスを拡充することで、今日、私達が目にするような形になっていった。コンビニは、生活の一部となり、もはや、コンビニなしでは生活ができないといった方も多くいるほどの存在になっているのではないであろうか。宿題各時代の日本人の食文化の特徴をまとめなさい。さようなら

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