2008年1月自学考试广外日语本科-日本社会文化试题一、次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)1.大森貝塚(かいづか)東京都大田区山王の縄文後期の貝塚、1877年、アメリカの生物学者のモースが発見、発掘(はっくつ)し、多数の土器、石器、骨角器が出土され、日本における最初の学術調査で、日本考古学発祥(はっしょう)である。2.卑弥呼三世紀ごろの邪馬台国の女王。「魏志倭人伝」によれば、30余国を統治し、239年に魏の明帝に朝貢し、親魏倭王の称号と金印とを受けたとされる。3.悪人正機阿弥陀仏の本願である救いは、悪人こそ受けられるものであるという説。浄土真宗の真髄とされる。4.垂加神道山崎闇斎の首唱した神道説。天道・人道一元の思想(天人唯一)を根本に、唯一神道・吉川神道など諸家の神道を集大成し、儒学上の造詣を加えて、陰陽五行の理を経とし、居敬窮理(きよけい)の説を緯とし、その説の権威を日本書紀神代巻に求め、皇室守護を本旨とする。二、次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。5.縄文時代の土偶は何のために用いたと考えられているのか。(15点)土偶は、単なる飾り物や玩具(がんぐ)などではない。縄文時代人の内面的な生活に深いかかわりをもつものであったろう。乳房や妊娠した状態は、女性とりわけ母性を意識したものである。このことから、動植物の繁殖、豊饒(ほうじょう)を祈願することなどに結び付ける考えがある。また、土偶が完全な形で発見される場合はきわめて少なく、たいていどこかの部分が欠損している。これについては、病気やけがなどの身代りであったとする解釈が聞かれる。、土偶が遺骸{いがい}を埋葬した墓壙{ぼこう}内から出土した例も報告されている。この場合には副葬品だといわれる。6.遣唐使が派遣された目的は何か。(15点)1、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった2、奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった3、奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶{そうりょ}の留学および貿易的利益を目的として派遣されるようになっていった7.12世紀ごろ、日本と宋との間で行われた日宋貿易の目的は何か。(15点)a、貿易をおこなおうという意図があったことは明らかですが、必ずしも私利私欲のためだけではありませんでした。積極的な貿易政策は、地域の武士の流通経済活動に道を開くうえでも意義がったといわれています。貿易の富のみならず、西国における在地領主への支配力強化というねらいもあったのです。b、日宋貿易によって輸入された文物は宮廷や一般社会に少なからぬ影響を与えました。(当時、女真族が建てた金国の圧迫を受けて、国内の主要な金の産出地であった東北部を押さえられていた南宋にとって、日本は金の重要な調達先だったのです。)c、宋銭の流入によって、経済を活発化する。d、日宋貿易は従来の経済活動を転換させ、日本が広大な東アジアの貿易圏に組み込まれていく先駆けになった。8.室町文化の特徴は何か。(15点)優美で伝統的な公家文化と、力強く素朴な武家文化が溶け合い、中国の宋、元、明の文化や禅宗(せんしゅう)の影響を受けて、簡素で深みのある文化が生まれた。また、さまざまな文化の融合も進み、しだいに民族的文化というものが形成されていった。今日の日本の伝統文化を代表するものとされる能(のう)・狂言(きょうげん)・茶の湯・生け花などの多くは、この時代に中央・地方を問わず、公家・武家・庶民の別なく愛好され、形を整えて基盤を確立していった。また、この時代には庶民の文化も起こった。9.近世日本における朱子学はどんな地位にあったか。(20点)日本に導入された朱子学の特徴としてa.神道と融合して儒家神道となった。b.排仏論c.封建制の上下秩序を正当化するイデオロギーとして幕府に採用された朱子学は理を重んじて、人間社会にある上下の関係は、天地が上下の関係にあるように永遠に変わらないと説明したから、徳川幕府は儒教の中で特に朱子学を奨励した。1、朱子学が近世日本の支配思想と一時期考えられた。2、朱子学が、いわゆる「官学」として認められるようになった。广外日本文化0810月真题一、名词解释(5点×4=20点)1、渡来人主として古代に朝鮮と中国より日本に移住してきた、日本に定住した人々の総称である。2、邪馬台国(やまたいこく)「三国志」の魏志倭人伝に記された、2世紀後半から3世紀前半の頃の倭わにあった最も強大な国。女王卑弥呼(ひみこ)によって支配される国とする3、浮世絵江戸時代に発達した民衆的な風俗画の一様式。室町、安土桃山時代の狩野・土佐派の風俗画の影響を受けて起こる。初めは遊里、芝居、のち一般風俗、風景、役者などを広く扱い、肉筆画と木版画がある。特に版画は菱川師宣に始まり一色刷から錦絵に発展。4、三経義疏聖徳太子撰と伝える「勝鬘経義疏」一巻、「維摩(ゆいま)経義疏」三巻、「法華経義疏」四巻の総称。三経に対する注釈書で日本人の手になる最初の本格的な仏典研究。二、下記質問を答えなさい。1、縄紋人の生活様式は何ですか。(15点)❀縄文時代には、主に狩猟、漁労、採集の活動が行われたが、水稲耕作が始まったと考えられている。❀縄文土器が多量に使用され、磨製石器が使用し始まり、竪穴式住居の普及、貝塚の形式などが挙げられる。❀人々は集団を成して生活した。単位集落は早期に10くらい、中期は数十人規模であったが、住人たちは互いに血縁関係に繋がっていたと考えられる。すなわち、氏族共同体という形で暮らしていたのである。❀埋葬が共同墓地で行われて、副葬品を殆ど持たないことから、貧富の差や身分の差はまだな買ったと考えられている。血の繋がりのある人々は共同生活を営み、獲物は公平に分け、道具等は共有であった。2、元禄文化の特徴は何ですか。(15点)a、典雅で上品な絵画や建築などに表現された。b、現実主義的な生き方と儒教的道徳に束縛されない自由な人間性を賛美する町人文化は富裕な町人の経済力を背景に形成された。3、天平文化が世界性があるというのはなぜですか。(15点)唐の最盛期の文化の影響を強く受けた国際色豊かな性格を持つ貴族文化である。その最大の特徴は、唐文化が導入された性格の濃い仏教・学芸に著しい。しかも唐文化の性格からして世界性にも富み、東アジア、インドや西域の諸文化を総合した性質を持っていました。4、摄関政治は何ですか。(15点)摂政または関白が天皇の後見として、政務の実権をとる政治形態である。。とくに、平安中期、律令制の変質によって、藤原氏が天皇の外戚として摂関となり、政権を掌握して行った政治形態を指す。天安二年の藤原良房の摂政就任に始まり、康保四年藤原実頼が関白になって確立、一一世紀前半の藤原道長・頼通の頃に最盛期を迎え、応徳三年の院政の開始によって形骸(けいかい)化する5、勘合貿易とは何ですか。(20点室町時代、幕府と中国の明朝との間で、勘合符を用いて行なわれた貿易。目的:1,明の文化・技術の導入2,明との貿易による収入3,東アジア世界での公認称号「日本国王」の獲得2006年1月日本文化一是名词解释共20分铜剣弥生時代の初期に朝鮮半島より伝えられた。伝わった時点の銅剣は細身で鋭いデザインであり、純粋に武器として使用された可能性がある。その後、弥生時代を通じて盛んに製造されたが、主にとして、儀式(ぎしき)に使用されたと考えれている。作成時期により三種類に分けて、初期の細形、中期の中細形、後期(こうき)の平形と分類されている。公地公民制大化改新の詔(しょう)によって、私地私民制を廃し、すべての土地、人民を国家すなわち君主(くんしゅ)の所有とし、私有を認めいない制度である院政白河天皇は幼少(ようしょう)の堀河天皇に譲位したのち、自ら上皇としてその御所(ごしょ)に院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握ることである。俳諧滑稽、面白い和歌のこと。連句、発句の総称である。二是简答题每题15分冠位十二階が実施された目的は何か聖徳太子は803年冠位十二階を定め、役人にその位によって、12に分けた冠位を与えた。家からに関係なく、才能や手からのある人を朝廷の役人に取り立てようとした。天皇の中央集権を図るのは最終的な目的である。「荘園」経済は当時の政治にどんな影響を与えたか荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる。平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めた。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。戦国時代には戦国大名による一円支配が成立、荘園の形骸化はますます進み、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。室町文化にはどんな特徴があるか優美で伝統的な公家文化と、力強く素朴な武家文化が溶け合い、中国の宋、元、明の文化や禅宗(せんしゅう)の影響を受けて、簡素で深みのある文化が生まれた。また、さまざまな文化の融合も進み、しだいに民族的文化というものが形成されていった。今日の日本の伝統文化を代表するものとされる能(のう)・狂言(きょうげん)・茶の湯・生け花などの多くは、この時代に中央・地方を問わず、公家・武家・庶民の別なく愛好され、形を整えて基盤を確立していった。また、この時代には庶民の文化も起こった。江戸幕府は17世紀初頭にどのような貿易政策を実施したか1、朱印船貿易を引き継ぎ、西国大名や京都・大坂・堺・博多・長崎の大商人に朱印状(渡航許可証)を与えて東南アジアやヨーロッパの国々と貿易を行いました。2、1635年に、日本人の海外渡航禁止令が出されたことで朱印船貿易は終結を迎えます。3、江戸幕府の鎖国体制下(海禁政策下)では、例外的にオランダと中国だけが『長崎の出島(でじま)』で貿易を行なうことが許されました。(a、江戸幕府は17世紀初頭の外交はキリスト教を禁じるが、平和貿易は奨励する方針であった。b、このような活発な海外貿易も幕府体制が固まるにつれて、日本人の海外渡航(とこう)や貿易に制限が加えられるようになった。c、最後は日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁止し、明船の寄港を長崎に限った。)三是论述题20分近世日本の蘭学はどのような学問か江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問。日本人が漢文書から西方の天文、暦学の知識を受け入れ、オランダ書籍から西方の植物学、動物学などを接触した、それ以後、西方の外科学、軍科学、物理学、化学、農学などを絶え間なく日本に転入する。これはすべて蘭学という。2006年10月日本文化一是名词解释共20分銅鏡銅鏡は北九州で特定の甕棺墓(かめかんぼ)から出土して、その多くは中国漢代の漢式鏡である。遣唐使遣唐使とは、倭国が唐に派遣した朝貢使(こうし)のことと言う。国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節である。大使、副使ら普通5、6百人が数隻(せき)の船に分乗して、2.3年が仮で往復した。630年は初めて派遣されて、唐末の戦乱のため、894年廃止である。軍記物語合戦を主として時代の展開を写した叙事詩的文学。鎌倉(かまくら)時代に多く作られ、保元物語・平治物語・平家物語・太平記などがある。主として和漢混淆(こんこう)体。古文辞学派荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学説を古文辞学派と称する、また萱園学派も言う。主に儒学(じゅがく)は「経世之学」のことを強調して、礼樂制度を開設した尭舜(ぎょうしゅん)先王を貴ぶ(とうとぶ)ことを出張する、儒者の本務は尭舜先王の古典を正確的に理解と記録する。二是简答题每题