广外日本社会文化历年试题及答案

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2006年1月日本社会文化试题一、次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)1.铜剣武器型祭器の一つである。弥生時代の前期後半に朝鮮半島から実用の武器として持ち込まれたもので、その後個人の所有か集団の祭器へと変化した。2.公地公民製大化だいかの改新かいしんで実施した政治改革の一つで、王族や豪族の土地、人民の所有を禁止し、代わりに食封を支給する事を定めるものである。3.院政天皇譲位後てんのうじょういご、院号いんごうを得て、上皇じょうこうまたは法皇となり、院庁いんちょうにあって国務を執行しっこうする政治形態である。1086年白河上皇が開始。当初は藤原家の牽制けんせいを目的としたが、平安末期まっきには武家ぶけ政権と対立し、承久じょうきゅうの乱後は形式化した。4.俳諧近世に起こった短詩形の一つである。連歌れんがの発句ほっく独立して俳句となり、これと長形式の連句をあわせて俳諧はいかいという。五七五の一七文字からなり、松尾芭蕉によって芸術的げいじゅつてきに大成たいせいした。二、次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。5.冠位十二階が実施された目的は何か?603年に冠位十二階が定められた。冠位は姓せい(出身)とは異なって、才能や功績に応じて個人に対して与えられるものであり、また次第に昇進しょうしんする事もできた。これによって、天下の人材を集め、豪族の勢力せいりょくを衰おとろえさせ、皇室こうしつの力ちからを強めることができた。6.荘園経済は当時の政治にどんな影響を与えたか奈良時代に朝廷は新しい土地を開墾かいこんしたものにその土地を与える墾田はまだ永年私財法をつくった。すると、力のある貴族や寺社や地方の豪族が、先を競きそって大規模な開墾をし、自分たちの土地を増やし始めた。こうして出来た私有地(後に荘園と言われ)はその後ますます広がって、律令政治の根本である公地公民の制度が崩れた。最初は一般に荘園は朝廷に年貢ねんぐを納おさめたが、貴族がその地位と権力を利用して、朝廷に納税をしないように特権を貰い、また荘園に対する監督を行う検田使けんたづかいの入荘いりしょうも拒否きょひし、国家の荘園への監督を逃避とうひした。このように荘園は朝廷に財政危機を齎し、朝廷政治を乱みだれさせ、国家秩序ちつじょを混乱を与えた。広い土地をもつ貴族や僧そうが政治の上で強い力を持つようになった。7.室町文化の特徴は何か?室町時代には、政治的、経済的に公家勢力を圧倒した武家勢力が、文化的にもその担にない手てとして登場した。禅宗の影響を強く受けた武家文化が、伝統的な公家文化と融合しながら、惣村そうそんや都市の民衆とも交流して広い基盤を持つ特色ある文化を生み出した。まず、南北朝の動乱期を背景とした南北朝なんぼくちょう文化が生まれ、ついで将軍義満の時代に北山文化が、将軍義政の時代に東山文化が形成されたが、特に北山、東山文化は室町時代の二つの頂点を成している。8.江戸幕府幕府は17世紀初頭にどのような貿易政策を実施するか?初めは幕府は海外渡航を許し、朱印船しゅいんせんで貿易する事を許可した。しかし、幕府はキリスト教の広まる事を危険と考え、また貿易利益を独占どくせんし、貿易を幕府の統制下に置こうとするため、1639年にポルトガル人が日本に来る事を禁止し、キリスト教と関係のないオランダ人と中国人にだけ、長崎の出島でじまで貿易する事を許した。こうしていわゆる鎖国さこくの状態となり、以後、200年あまりの間、日本はオランダ、中国、朝鮮以外の諸国との交渉を閉ざすことになった。9.近世日本の蘭学はどのような学問か?蘭学はオランダ語による西洋文物の研究の総称である。西洋の学問や知識は、鎖国の間幕府が貿易を許したオランダから伝えられたので蘭学として発達した。特に八代将軍徳川吉家とくがわよしいえの蘭書輸入の解禁により、医学、天文学、歴学などの分野から発展し、さらに地理、博物はくぶつ、科学など、自然科学全般にわたって、オランダ語による紹介が行われ、合理的な思考形成の基礎きそとなった。2006年10月日本文化一、是名词解释共20分1.铜镜紀元3世紀後半三国や六朝時代の中国大陸から持ち込まれたものと古墳時代に造られたものがあり、よく副葬品として用いられた。三角縁神獣鏡さんかくえんじんじゅうきょうが有名で、邪馬台国よこしまばだいくに論争の重要資料でもある。2.遣唐使630~894年間に20回任命され、16回渡海とかいして唐へ渡った日本の留学生や留学僧である。律令国家の政治、文化に大きく寄与きよした。894年菅原道真すがわらのみちざねの建言けんげんで中止した。3.古文辞学派荻生徂徠おぎゅうそらい創始の古学ふるがくの一派いっぱである.仁斎じんさいの古儀学に対し、古典や聖賢せいけんの文辞に直接触れ、治国ちこく礼楽れいらくの制を整ととのえようとする。4.軍記物語中世に発達した戦記文学である。勇壮ゆうそうかつ流麗な和漢混交文で、後世「語り物」として庶民の間にも愛好された。「平家物語」が代表作である。一、是简答题每题15分1.いわゆる三種の神器どのようにできたのか?三種の神器かみきとは八尺鏡はちじゃくきょう、八尺瓊勾玉はちじゃくぎょうまがたま、草薙くさかの剣という、三種の神宝しんぽうの事を言う。この三種の神器は天孫降臨こうのぞむに際してこの地上に齎された。高天原を司つかさどるアマテナス大神が、ニニギの命を地上に下ろすにあたって、この三種の神器を与え、この国を世界が続くかぎり支配する事を命めいじたと言われる。三種の神器は古来天皇の位の印として相伝そうでんそれ、これを伝えない天皇は正統の天皇ではないとされた。2.鎌倉かまくらの仏教はどんな特徴がありますか?❀戦乱が続く不安な世の中で、武士や農民は強く宗教を求め、神仏に救いを求めるようになった。❀浄土真宗じょうどしんしゅうは「南無阿弥陀仏」を唱え、誰でも往生おうじょう出来ると言う。日蓮宗は「南無妙法蓮華経」を唱え、すべての人が救われると説とく。禅宗ぜんしゅうは座禅ざぜんによって精神を鍛える。❀鎌倉仏教はこれまでの国家や貴族中心の仏教と異なり、真しんに民衆の魂たましいを救おうとするものである。戒律、学問を重視するのではなく、分かりやすく、実践を重んじたものだった。3.鎖国令の目的は何ですか?❀鎖国令はキリシタン禁止と、貿易の幕府による独占を内容としている。❀その原因にはキリスト教論理の浸透を恐れ、西南諸藩しょはんの外国貿易による強大化を封ふうじようとした幕府の意図いとがある。❀根本には下克上げこくじょうの国内を統一して、新しい支配を樹立しょうとする幕府政権の体制確立連動があり、幕府による九州長崎、畿内諸都市の掌握、禁教を通じての国内人民の統制把握の動きが背景に存在していた。4.南蛮文化は日本にどんな影響がありますか?❀南蛮なんばん貿易や宣教師によって、日本に初めて南ヨーロッパの文化が伝えられた。今も日本語には南蛮語が残されている。❀天文学、地理学、航海術、数学、医学などの学問が日本に伝わった。❀宣教師が神学校、修業所しゅうぎょうしょで教育を行い、天正遣欧使節の持ち帰った活字印刷機による「平家物語」「伊曾保物語」「日葡辞書」なども出版された。5.町人文化の形成された背景は何ですか?❀江戸幕府が全国を支配して、戦たたかいのない世の中になった。荒地あれちの開墾、農具の改良、作物の種類の増加などで農業はいっそう進歩した。織物、酒、紙などの手工業も発達した。❀産業の発達や参勤交代の影響で交通も盛んになり、道路も発達した。江戸を中心に地方への五街道ごかいどうができ、航路も発達した。❀産業と交通の発達と伴ともなって、商業も盛んになった。大商人も生まれた。平和な世の中で学問や芸術も盛んになった。2007年10月日本文化一、名詞解釈1.銅鐸日本独特の釣鐘つりかね型青銅器である。近畿を中心に300個以上出土した。高さ12~135cmである。朝鮮半島から伝来したと見え、弥生人が真似まねて独自の鐘として製作した。2.大化の革新645年(大化元)の蘇我氏打倒だとうに始まる一連の政治改革である。氏姓制度の弊へいを打破だはし、唐の律令制を基に天皇中心の中央集権の国家建設を目標とした。中大兄皇子なかのおおえのおうじ、中臣鎌足なかとみのかまたりが中心ちゅうしんであった。3.摂関政治10-11世紀の平安中期、藤原氏が外戚がいせきとして摂政せつせい、関白かんぱくを独占どくせんし国政こくせいを左右した政治である。摂政の職は藤原基房、基経がその例を開き、安和の変の後は常設となった。11世紀の前半の道長みちちょう、頼通たよるつうの時が全盛期で、その後院政によって衰おとろえた。天皇権の代行、太政官の独占、政治が私権化した。4.古義学派17世紀の後半、伊藤仁斎によって開かれた学派である。「論語」、「孟子もうし」等の儒学の原典批判を通じて直接聖人せいじんの道を正しく理解しょうとした。二、次の質問をよく考えて自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。(80点)5、日本人の起源について現在までにどのような学説が唱えられてきたか。(15点)日本人の祖先そせんは五つの方向ほうこうから日本列島に移民してきたと思われる。北の方から:樺太からふとから北海道を通じて本州北部へ。南洋から:南太平洋諸島から本州東部へ。朝鮮から:シベリアから中国の華北、朝鮮半島を通じて本州中部へ。中国海、沖縄から:中国華南地区、東南アジアから台湾、沖縄を通じて九州南部へ。色々な説がありますが、参考として:❀アイヌ人説:縄文時代の人骨が北海道近代アイヌ人のと似ている。アイヌ人は日本人の祖先である。❀原日本人説:新石器時代人はアイヌ人、現代の日本人と似ている。現代日本人は縄文時代に日本に来た原日本人と後に大陸、南洋からの人類との混血による。❀混血否定説:石器時代の人と現代人との骨骼ほねかくの差は歴史の進展、生活様式によるもので、石器時代の人は中国南方から来た。❀騎馬民族説きばみんぞくせつ:騎馬民族が朝鮮半島の南端から4世紀の初めに九州に上陸、4世紀末から5世紀にかけて大和やまとに入はいり、王朝おうちょうをつくった。❀雲南説うんなんせつ:稲いねの作り方、家の様式等から主張する説である。6、いわゆる「国風文化」をどう見るべきか?❀10世紀になると、それまで摂取せっしゅしてきた中国文化を消化し、日本の風土や感情に融合させようとする動きが置き、洗練せんれんされた貴族中心の文化が展開した。❀仮名文字は国風文化の基調となった。仮名により日本人の感覚をより自由に表現することができ、日本文学にも大きいに貢献こうけんした。❀貴族社会の国風文化は住宅様式の寝殿しんでんづくりの発達、大和絵やまとえの興隆こうりゅう、書道、服装の発展等をさせた。7、室町時代の「勘合貿易」が中日両国の文化にどんな影響を与えたか。❀勘合貿易は日本に大きな経済利益を齎した。貿易船の正副史を担当するのは僧侶そうりょであった。禅宗の僧侶は漢文ができ、中国の事情が分かるからである。また貿易船とともに来た従僧じゅうそうもある。日本の有名な画家雪舟ゆきふねもその一人である。彼の絵に中国の影響が大きいと言う。貿易舟によってたくさんの中国書籍やお経や名僧の文書等も日本に持って帰った。帰国した僧侶は朱子学しゅしがくの提唱ていしょうもした。❀中国側の勘合貿易による経済利益は日本より少ないが、漆うるし、屏風びょうぶ、扇子等の工芸品も貿易船とともに中国に入った。明の時代の名僧も正使として日本へ文化交流に貢献した。8、近世初頭の禁教政策が実施された背景は何か。(15点)❀キリスト教が16世紀の中ごろに日本に入った。17世紀の初頭しょとうになると信徒しんとが70万人にも達たっした。急激な増加の原因としては、この時代が中世から近世への過度期にあたり、仏教、寺院勢力の社会の影響力が後退こうたいし、人々が新しい信仰しんぎょうや社会的な軌範を求めようとしていた。❀キリスト教側も軍需品の供給や貿易利潤の提供をえさに領主権力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