1.共通研究施設電子計算機室時代電子計算機が戦後世に現れ目覚しい躍進を遂げる中で、技術革新時代の基盤を大きく支え、学問技術の諸分野に絶大な貢献を果たし続けてきた実績は、衆目の認めるところである。本邦における計算機産業がようやく起動に乗り始め、各界における計算機利用が華々しく展開され始めた昭和35年頃、本学でもこれに関心を寄せ、研究上への計算機利用をもくろむ人たちが現れるようになった。そうした中で、共通研究施設電子計算機室が設置された。時は昭和38年4月1日である。この計算機室は事務局研究協力課所管とされ、同年3月末導入された電算機FACOM-222(買取価格8,500万円)を本館地下38号室に設置して、業務が開始された。37号室がMG用、16号室が保守室用に割り当てられ、専任技官2名、技術補佐員2名による保守管理に支えられて、運用が始まったのである。管理運営に関しては、電子計算機管理委員会が組織され、同年9月には東京工業大学計算機室使用内規が制定施行されるなど、ようやく運営は軌道に乗っていった。機器構成としては、FACOM-222を本体とし、内部記憶装置4kW、外部記憶に磁気テープ装置2台、これに紙テープ入力装置とLP出力装置から成るシステムとして出発したが、暫時借り入れ等により、FACOM-322、内部記憶容量4kWの追加、磁気ドラム装置10kW、カード入出力装置MT3台等の増設が行われていった。ちなみに、昭和43年度におけるジョブ処理件数は4,602件で、機械工学系を筆頭に原子炉研、土木建築系と続いて全学に及ぶ約200名の利用者があった。計算機室開設以来、利用者の便宜を図るためオープンショップ方式の採用やセミクローズ方式の併用など種々運用上の改善努力が重ねられたが、逐年増加し始めるようになった利用者の要望を受け入れるには、計算機システムの能力(乗算速度0.8ms)は余りにも低いものであった。学外では昭和41年以来全国共同利用大型計算機センターが逐次稼動を開始することになったのを機会に、本学のかなり多数の研究者が東京大学の同センターに殺到する事態が発生するようになった。学内では、上記大型センターを利用する人たちの間で自主的組織として利用者協議会を結成する動きがあり、計算機利用者の急増に対応して全学的見地から適時処置がとられるよう要望書が提出されるに至った。こうした事態を重視した研究委員会では、ついに昭和43年3月委員会の決議に基づいて東京工業大学計算センター設置要望書を学長に提出したのである。予算の見通しが定かでない状況下において、同年11月計算センター設置準備委員会が発足した。同準備委員会では、利用者協議会での意見の集約を図るとともに、予算実現のための活動を開始し、学外有識者を招く懇談会の開催や、東大大型センター運営委員会、学術会議長期研究委員会情報科学小委員会に代表を送るなど、さまざまな手段を通じて本学の実情に対する理解を求め、2年半にわたる歳月を費やして、ついに文部省の了解を取り付けるまでに至った。かくして昭和46年3月、次期導入機種をH-8700/8400システム(当初47年9月まではH-8500/8400)としてセンター開設に踏みきるべく、学長答申を行ったのである。このことに伴い、上記委員会を東京工業大学情報処理センター設置準備委員会に改組、同年7月情報処理センターの誕生発足となった。2.情報処理センター時代学内共同利用施設としての当センターの発足に伴い、情報処理センター設置要項および情報処理センター運営委員会要項が制定され、昭和46年10月22日、同年7月以来センター長事務取扱としてすでに活躍中であった理学部堀江久教授が、初代センター長に任命された。利用者に対する報告活動の一環として早々に企画されていた情報処理センター広報は、同年10月1日付けで創刊号が発刊され、以後毎月1回定期的に刊行されるようになった。センター誕生に伴う諸活動として、学内利用者のための講習会の実施、プログラム相談員制度の新発足、利用料金制の整備等が相次いで行われ、報告を通じて学内への周知徹底が図られた。同年12月上旬、かねて建設中であった情報処理センター新営建物が竣工した。場所は本館前管理棟脇の並びで、鉄筋コンクリート2階建て、延べ2,460㎡の広さである。1階には、センター長室、事務室、システム管理室、変電室、電池室、空調機械室、会議室、倉庫等が設けられ、2階には、電子計算機室、入出力機械室、利用者控室、保管庫等が設けられた。総工費9,950万円である。また、建物内に設置された主要な設備としては、CVCF安定電源設備関係5,480万円、空調設備5,295万円、電話設備その他838万円がある。本体である電子計算機システムは、機種選定時における当初からの予定どおり、暫定期間である当初の9ヶ月間は、代替機種であるHITAC-8500システムおよび副システムとしてHITAC-8400システムを導入設置することで計画が進められ、昭和47年1月5日、晴れて稼動開始となった。システムの稼動運用は極めて順調なすべりだしで、当初の1ヵ月間におけるジョブ処理件数は3,174件を記録している。早々に繁忙期に突入することとなったセンターでは、事態を克服するため連日4時間の延長運転を日立製作所からのオペレータ派遣によって実施した。学内利用者の間に長らく潜在していた需要が、この期に及んで一気に噴出した様相がうかがい知れる。さて、情報処理センターの事務組織は、引き続き事務局研究協力課の所管とされたが、この機会に組織強化が図られ、課長補佐、専門職員、共通施設第2掛(庶務経理担当)、共通施設第3掛(業務担当)が置かれた。職員計13名は早々に新営建物に移転し、システムの稼動開始とともに業務は本格化していくこととなった。センターの運営については、堀江センター長を委員長とし小林啓美教授を副委員長とする情報処理センター運営委員会が、早々に発足していたが、システム稼動に伴って発生する諸々の問題を踏まえて、センター業務の現状分析や将来構想についての調査分析、あるいは具体案の作案等を合理的におし進めるため、昭和47年3月、上記運営委員会の下部組織として、バッチ処理専門委員会、オンライン専門委員会、ライブラリ専門委員会がそれぞれ発足することとなった。設置稼動することとなった電子計算機システムはレンタル契約に基づくものであって、年間定例運用に入った昭和47年以降のレンタル料予算は、年9,593万円である。これに対してセンター運営費の予算は、年516万円であり、他大学大型計算機センターの運営費と比較すると、システムの性能・規模からみて、かなり格差のある厳しい運営を強いられる状態であった。本センターのシステムは、学内センターとしては全国でも異例の規模を持ち、全国共同利用大型計算機センターにおけるシステムに準ずるものであったから、ターン・アラウンド・タイムを最小限に確保し、サービス向上につとめるに当たっても、これらのセンターに後れをとらない事が一つの重要な目標となっていた。運営費の窮状を踏まえて、センターの円滑な運用に資するための維持経費等を捻出すべく、利用料金収入の確保や運用上の工夫に捧げられた努力は少なくない。昭和47年10月1日、かねて予定されていた本格稼動機種HITAC-8700/8400システムの運用開始となった。同機は第3・5世代計算機としてわが国初のLSI高密度実装技術を取り入れた計算機である。主システムH-8700は主記憶装置524KB、磁気ドラム4.2MB、磁気ディスク装置146MBをはじめとする関連機器を擁し、多量のバッチ処理を一括実行するとともに、副システムH-8400は、もっぱらオンライン実時間処理に充てられた。暫定機種であったH-8500は、システム移行への円滑化に協力した後、同年12月16日無事撤去された。本センター開所以来、東大大型センターへの計算依頼はそれまでの約一割程度に激減し、年間ジョブ処理件数では、47年度39,314件、48年度52,503件を記録している。センター利用者との間の技術的な接点をなすプログラム相談員の献身的な協力とともに、学内各方面の支援に支えられたおかげで、逐年旺盛な利用の進展が見られるようになった。昭和48年10月22日、堀江久教授のセンター長再任が決まり、センター内充実のためのさまざまな対策が打たれていったが、昭和50年度から始まることとなった長津田地区への一部研究所等の移転と、同地区における新構想大学院の発足に伴って、これまでの体制では全学的なサービスを全うすることが絶望的であると判断されるに至った。すでにシステム増強への相次ぐ努力にもかかわらず、システムの能力の限界が見え始め、東大大型センターへの計算依頼分増加が目立ち始めたことも、無視できない要因であった。本センターではかかる事態を抜本的に克服するため、将来計画の立案を背景として脱皮への画策をおし進め、ついに昭和50年3月、東京工業大学総合情報処理センター設置準備会の設置にこぎつけたのであった。同年9月には、新発足した長津田地区の計算需要に応ずるため、応急措置として定期便を利用したジョブ処理の受付を開始したことは、記録にとどめておかねばなるまい。同年10月22日、総合理工研究科小林啓美教授が新たにセンター長に任命されるや、慌ただしさは更に急を告げ、翌昭和51年1月には東京工業大学総合情報センター設置準備委員会規約の制定により、設置準備会は改組された。この間にも計算需要の増加は著しく、50年度末の集計による年間ジョブ処理件数は約62,000件に達していた。3.総合情報処理センター時代昭和51年5月10日、本センターは国立学校設置法施行規則(昭和39年文部省令第11号)第20条3項に定める学内共同教育研究施設として正式に認定されるところとなり、この機会にその名称も東京工業大学総合情報処理センターに改められた。管理組織としては、従来の研究協力課所管から離脱し、新たに学内の独立部局として発足することになり、小林センター長以下、事務長、総務掛、会計掛、業務第1掛、業務第2掛、および1年おくれでシステム管理掛が置かれることとなったばかりでなく、情報処理教育室として専任の助教授1および助手1の定員が認められた。センター発足とともに制定された東京工業大学総合情報処理センター規則にのっとり、同年6月には総合情報処理センター運営委員会が発足することとなり、これにより従来の情報処理センター運営委員会および設置準備委員会は廃止された。直ちに活動を開始することとなった運営委員会では、その下部組織として、電子計算機システム運用専門委員会、電子計算機システム専門委員会、教育専門委員会を設け、運営の刷新が図られていった。新発足したセンターでは、従来の研究を主体とする計算需要に応ずるばかりでなく、新たに全学的な一般的情報処理教育や電算化を目指す事務処理のための計算需要にも対処することとなり、研究・教育・事務の3本柱はその後のセンター運営における重要な支柱となっていったのである。昭和52年1月10日、大岡山地区に新たに導入設置されたM-180システムが稼動を開始した。同システムは、バッチ、リモートバッチ、TSSの各利用方式を総合的に処理するもので、主記憶装置3MB、補助記憶装置として磁気ディスク装置3台、磁気テープ装置6台を擁するほか、高速演算機構の追加(同年8月)等によって、従来に対する3倍の処理能力を発揮するものであった。また、この機会に利用者の便宜とセンターの省力化のため、オープン入出力形式が採用された。同年1月16日、初めてのセンター専任教官として前野年紀助教授が着任し、システムの管理運営や情報処理教育上の専門スタッフとして活躍を開始、同年2月末には一般情報処理教育のための教育用実習室等を新設するための増築(センター建物の3階部分)工事が完了するなど、計画は着々と進められていった。なお、暫定措