1湖南省の観光湖南省の概況面積:21万平方キロ略称:湘省庁:長沙位置:洞庭湖の南に位置。気候:大陸型中亜熱帯モンスーン湿潤気候に属し、年間平均気温は16~18℃、四季の気温の変化が激しく、冬は寒く、夏は蒸し暑い。春と夏は雨が多く、秋と冬は乾燥している。人口:約6392万人、土家、苗、トン、瑶、回、ウイグル、チワン族などの少数民族が住んでいる。主な都市:株洲市、湘潭市、衡陽市、邵陽市、岳陽市、常徳市、張家界市、益陽市、永州市など。概要:洞庭湖は養殖漁業の漁場として有名で、その付近は全国有数の『魚米の郷』と呼ばれる富裕な地。米のほかにも茶油、茶、柑橘類、桐油などの生産が盛ん。また非鉄金属の埋蔵量も多い。中国共産党の農民運動と蜂起がここで行われた。毛沢東・劉少奇・胡耀邦はじめ中国共産党の指導者を数多く生んだ地として有名。毛沢東の故郷・韶山は革命の聖地となっている。市内には湘江、資水などの河がある。大きな湖は洞庭湖がある。観光スポット:南岳-衡山、張家界、索渓峪、天子山と猛洞河などの景観区を含む武陵源景観区、岳陽楼・洞庭湖、衡陽の石鼓山と回燕峰、韶山、長沙の馬王堆漢墓、岳麓山、愛晩亭、橘子州、岳麓書院、中国共産党湖南区委員会旧跡など。歴史:春秋時代は楚国に属していた。その後秦の始皇帝が中国を統一し、長沙・黔中の2郡を設けた。漢時代は荊州に所属し、『長沙馬王堆漢墓』の発掘により前漢時代に高度な文明が築かれていたことが証明された。湖南という名称が使われ始めたのは唐代に入ってから。宋代には両路、元・明代には湖広行省に所属し、湖広書省が置かれ、清時代の初期に湖南省が設置された。1972年、長沙近郊の『馬王堆(まおうたい)古墳』で2000年前の大公夫人のミイ2ラと副葬品が発見され、世界を驚かせた。湖南省博物館湖南省博物館は、中国の省クラスの歴史・芸術博物館である。同博物館は、湖南省長沙市の湖南革命烈士公園の北側に位置し、敷地面積は5万平方メートル以上、建築面積は2万平方メートルある。1951年3月に建設計画が始まり、1956年2月にオープンした。同博物館の収蔵品は11万点以上、そのうち、1級文物に指定されている収蔵品は763点ある。その中には、新石器時代の石器や陶器、殷(商)・周の青銅器、戦国時代の楚の文物、馬王堆漢墓の出土文物、後漢から隋唐までの湘陰窯と岳州窯の青磁、唐・五代の長沙窯の下絵付け磁器、唐代に書き写された王羲之の『蘭亭序』の書などがある。また珍品としては、人面紋の方鼎や象紋の大鐃(ドラ)などの殷の青銅器、長沙馬王堆の3つの漢墓から出土した3千点以上の貴重な文物と女性の湿屍(ミイラ)がある。長沙馬王堆の1号墓から出土したT型の帛画は、長さ2.05メートル、天上や人間社会、地下の世界の情景が描かれ、神話と現実が渾然一体となっている。3号墓から出土した28点の帛書は、12万字以上の文字が書かれ、その中には『老子』『周易』『経法』『戦国縦横家書』『五星占』『五十二病方』などが含まれている。これらの書はほとんど、早くから散逸してしまった古籍で、古代哲学や歴史、天文学、医薬学などの研究にとって、いずれも非常に高い価値をもっている。同博物館の常設展示は、「湖南歴史文物陳列」と「馬王堆漢墓陳列」で、そのほかこれまでに、「楚文物展覧」や「館蔵明清絵画展覧」「斉白石画展」など40あまりの展覧会が挙行された。同博物館が編集、出版した書籍や雑誌には、『湖南省博物館』(大型図録)や『長沙馬王堆1号漢墓』(発掘報告)など30種以上ある。馬王堆漢墓馬王堆は長沙市東郊4キロ、瀏陽河の西岸、長瀏道路の北側の芙蓉区馬王堆郷(旧東屯渡郷)に位置している。河の湾曲部の平地に土盛りで出来た丘があり、地方誌によれば、五代の楚王馬殷とその家族の墓地とされ、そのため馬王堆と呼ばれた。また3東側と西側にそれぞれ土を盛った塚があり、その形が馬の鞍に似ていることから「馬鞍堆」と呼ぶ人もいる。しかしその後の発掘調査で「長沙丞相」「大侯之印」「利蒼」の三つの印象が発見されたことから、墓の住人が前漢時代の長沙国丞相利蒼とその家族であることが判明した。丘の上の墓は全部で三基。それぞれ封土の高さ10m、直径30mの規模を持つ。1972年から1974年にかけて行われた発掘により、1号墓は利蒼の妻、2号墓は利蒼本人そして3号墓は利蒼の子供が埋葬されていることが確認され、3つの墓はそれぞれ約20年の間隔を経て造営されたことも判った。1号墓と3号墓の内部の保存状態は極めて良く、中でも1号墓からは女性の遺体(利蒼の妻、辛追)が埋葬から2100余年を経ても腐敗せずにほぼ完全な状態で出土したことで、馬王堆は全世界にその名前を知られるようになる。1号墓は3基の中でも規模が最も大きく、墓坑の長さは17.8m、東西の幅が17.8m、深さが16mある。棺は内棺3層、外棺3層の6層構造で、棺の周囲には30-40cmの厚さで木炭が詰められ、その外側は60-130cmの漆喰により固められていた。出土した遺体は身長154cm。外形は無傷で皮膚にはまだ弾力があり、毛髪も一部が残されていたほか、関節の一部を動かすことも可能であった。靭帯のほとんどは弾力性を有し、内臓器官も完全な状態で、ほぼ正常な位置に残されていたという。墓からは多くの貴重な絹製品も出土している。特に長さ128cmで重さわずか49g、蝉の羽根のように軽くて薄い淡色の禅衣。長さ205cm、上部幅92cm、下部幅47.7cmのT字型をし、天界・人間界・地獄界の様子が巧みな構図で描かれた彩色帛画などが有名だ。また12万字あまりの帛書も出土し、その多くが現在ではすでに散逸した史籍であったため学術界の注目を集めた。中でも初漢の長沙国南部の地形図、駐屯軍の地図、県城平面図が描かれた三つの地図は、現在まで伝わっていた地図よりも1300年以上も古く、世界でも最古の地図といわれる。また3号墓から出土した「五十二病方」は、戦国時代に成立した中国で最も古い医学書「黄帝内経」よりも更に古い時代に成立した可能性があるとされ、書中には52種類の疾病の解説のほか、100数種類の疾病の名4前も挙げられており、処方箋も280余りで、240余りの原料名も記載されている。これは中国で見ることができる最も古い処方箋であるといわれている。現在1号墓と2号墓はすでに埋め戻されており、3号墓のみが修復を経て一般に公開されている。また出土した文物の多くは湖南省博物館に所蔵されている。(中国・湖南省長沙市東郊4kmにあり、2基の墳丘が東西に接してそびえ、馬鞍堆ともよばれる。1972年、中国は国をあげて食糧増産に取り組んでいた。長沙の軍の施設の裏山は、五代時代の楚王馬殷(852~930)の墓だという伝説があった。そこを畑にしようと切り崩したところ、前漢時代(BC186~168頃)の貴重な文物が大量に出土した。漢墓は発掘された順に、1.2.3と番号がふられた。現在、1.2号墓は埋め戻され、3号墓のみが公開されている。)(1号墓)被葬者:長沙国丞相軟侯利蒼の妻、辛追(50才位)埋葬年代:BC168年以後数年の間出土状況並びに出土品:被葬者、副葬品が完璧に保存。退色もなくまさに2000年の時をこえるタイムカプセル(用語解説)版築…木型に粘土を詰め込み、突き固めて壁を築くこと。白膏泥…主成分は二酸化硅素とアルミニウムと少量の酸化鉄。陶土に似てきめ細かく粘性が強く密封性に富む。棺槨…内棺と外棺。枕木・椁室・棺の三部分で構成。(2号墓)被葬者:長沙国丞相軟侯利蒼(だいこうりそう)埋葬年代:BC186(呂后2年)出土状況並びに出土品:早期盗掘。被葬者の死亡時はまだ戦乱期の為、墓は簡略に造られた。印章が出土。(3号墓)被葬者:利蒼の息子(30才位)埋葬年代:BC168(漢の文帝12年)出土状況並びに出土品:被葬者は戦死。後年に1号墓を造った時に3号墓の基盤が削5られ、白膏泥が薄い所が出来、内部の保存が不完全に。帛画帛書他1000余点が出土。(その1)★完全保存の女性の死体(用語解説)馬王堆漢墓が世界的に有名になったのは、2000年の時を超えて、死後間もない程完全に保存された女性の屍体が発掘されたことだ。湿屍…肉体の軟部組織が残っている遺体。密閉して深く埋め、長期的酸素欠乏の環境が出来、また年間を通じて18℃の湿度を保ち、なおかつ棺液の湿潤と抑菌作用による偶然によって出来上がったもの。*補足…馬王堆の遺体の防腐措置。死後、香草を用いて香湯や薬酒に煎じて製し、死体に行水(入浴)させ汚れをとる。その後すぐ着物と装身具を着せた。顔の部分は被せて軽く覆い、全身は絹や麻の織物を約20枚重ねて包んでいて、外側は更に9本の絹帯(組み紐)を用いて厳密に縛りくくった。これにより昆虫の屍体への侵入や、口や鼻等の部位に産卵して、うじが生まれるのを防止出来た。また空気を隔離する助けにもなり、死体の早期腐敗の過程を阻止停滞させる作用があった。遺体の女性は多くの疾病があり、いつ死んでもおかしくなかった。墓の準備は生前に完璧に整っていた。漢代の葬礼に則り、彼女は死後5日以内に棺に封じられた。棺木の内外に漆を塗り、蓋の口は更ににかわ漆を用いて封じ固め密閉した。棺内の空間は死体と包物でふさがり満たされることにより残る空気は大変少なくなった。屍体が初期の腐敗過程と棺内物質の酸化過程は、非常に速く酸素を消耗し、酸欠環境が出来上がった。墓葬条件墓は水のあまりしみ込まない層の中にあり、一号墓の墓抗の深さは16メートル。墓の上の封土を加えると深さは20m余り。墓底は石砂層に達する。深く埋まる事により墓室に外界の気候変化の影響が減少。また棺の外の木郭に大量の木炭を詰めた。木炭は防湿作用がある。木炭の外側に0.6~1/3mの厚い白膏泥を詰め封じてある。白膏泥は極めて密閉性が高い。(解剖所見補足)6食道と胃から138粒のまくわ瓜の種が発見されたことから、夏の暑い日に彼女は突然亡くなった。肺は黒く変色。日中も屋内で生活し、香を常用していた身分の高い女性。化粧に使用した鉛丹・辰砂が有毒で、髪が抜けカツラを使用。遺体の女性の血液型はA型だが、カツラはB型だった。(その2)★『非衣』彩絵帛画平織の絹に描いた古代中国の絵画。黒の線画に朱・青・緑・白で彩色。衣服の形に似ているが服ではない。内棺の上から発見。絹は地下で腐り易いので出土例がとても少ない。絹は大きな図や画が描け収蔵や携帯に便利だが、非常に高価だ。古い時代の資料が竹木簡が多いのはこのような理由がある。T字形で、長さは205cm・上部幅は92cm・下部幅は47.7cm。上部は日・月、蛇身人首像、扶桑樹、青龍を描き、天上界を表している。中間部には被葬者の生前の姿が描かれ、現世界を表している。一号墓は三人の侍女を従えた婦人像で、杖をついた老婦人が描かれている。墓の主人、利蒼の妻・辛追だ。下部には、大地を支える巨人、魚、亀などを精細に描き、地下界を表している。(その3)★素沙単衣素沙単衣とは、白絹で出来たごく薄い単衣の着物という意味。長さ1.28m。袖の長さ1.9m。重さはわずかに49g。もし襟と袖口のやや厚くて重いへりを除けば、着物の重さはわずかに12~13g。セミの羽のように軽いので『薄如蝉翼の素沙単衣』と呼ばれる。漢代の女性の衣装は、軽細を重んじ、かつ錦の模様を外に現すことが好まれた。つまり綺羅びやかな錦衣の上から軽い単衣をはおる。これにより視覚に華美さを加え、錦衣の模様(装飾模様)がはっきり見え過ぎないようにしていた。長江流域は、気候の温暖湿潤で、植桑や養蚕に適し、絹織物の重要産地だった。馬王堆一号漢墓は保存が完全だったので、完全に整う絹織物と服飾品が100点以上7出土。また絹織物の種類は、絹・綺・羅・紗・錦・組帯・繍がある。(その4)漆器馬王堆漢墓出土の漆器は、数量の多さ・保存の完全良好さの点で、いずれも今迄になかったものである。また器の形も多様で、精巧な工芸も素晴らしい。漆器は胎質(物のしん、骨組みの材質)に木