日本文学史-俳谐

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近世文学ー俳諧復習:一、次の言葉の意味を理解しているか。関ヶ原の戦い大政奉還参勤交代四民制度城下町鎖国令寛政異学の禁文運東漸県居派・県門/鈴の屋派/桂園派二、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長の国学における位置づけはどうであるか。古池や蛙飛び込む水の音俳諧の基本的な特徴1、五七五の定型2、季語3、切れ字主な内容一、俳諧の連歌二、貞門俳諧(松永貞徳)三、談林俳諧(西山宗因)四、延保年間の俳諧革新五、蕉門俳諧(松尾芭蕉)六、天明期の俳諧(与謝蕪村)七、幕末の俳諧(小林一茶)重点1、蕉門俳諧の理念、成立背景2、与謝蕪村の俳諧の特徴一、俳諧の連歌俳諧が興った背景(p142)俳諧:俳諧の連歌の略称、戯れ、滑稽の意俳諧の発展平安時代:俳諧歌(滑稽味のある和歌)中世:俳諧の連歌(滑稽を味わいとする連歌)近世:連歌への従属から解き放たれ、独立したジャンルに成長連歌から俳諧へ質問:なぜ中世の連歌が俳諧に取り替えられたか1、宗祇以後、連歌はだんだん固定化し、繁雑な形式のみ重視した。2、純粋なる連歌は割合に貴族的な文芸であり、新たに勃興した庶民階層の興味に合わない。(連歌ー俳諧の連歌ー俳諧)俳諧の連歌鼓吹者:山崎宗鑑、荒木田守武連歌師の立場で俳諧の連歌を提唱山崎宗鑑の俳諧の連歌手をついて歌申上る蛙哉月に柄をさしたらばよき団扇かな佐保姫の春立ちながらしとをして自由奔放でありながら、卑俗的な性格を持っている貞門俳諧俳諧を中世連歌から独立させ、近世的文学としての性格・様式を与えたのが松永貞徳であった。(p143)松永貞徳の俳諧への認識及び貢献1、俳諧を和歌、連歌に入れるための段階と認める2、俳諧の特質を滑稽と認めながらも、下品猥雑な内容を退けた。3、俗語や漢語などを「俳言」を確定し、題材の拡充をもたらし、庶民にわかりやすい俳諧ひとことで言えば室町時代の放縦性にある種の論理的な規制を加えたのが貞門俳諧である松永貞徳の画像江戸初期の京都の俳人で歌人。名は勝熊、号は長頭丸・逍遊軒など。細川幽斎に和歌を、里村紹巴(じようは)に連歌を学んだ。和歌や歌学を地下(じげ)の人々に教え、狂歌も近世初期第一人者。「俳諧御傘(ごさん)」を著して俳諧の式目を定め貞門俳諧の祖となる。門人に安原貞室、北村季吟らなどある。編著『新増犬筑波集』『紅梅千句』など、俳論書に『俳諧御傘』がある。皆人のひる寝の種や秋の月(松永貞徳)順礼の棒ばかりゆく夏野かな(松江重頼)これはこれはとばかり花の吉野山(安原貞室)花よりも団子やありて帰雁(松永貞徳)暑き夜の星はあせぼかあまの原(松永貞徳)歌いくさ文武二道の蛙かな(安原貞室)貞門俳諧の特徴:1、通俗性、滑稽性2、温和さ、上品さ3、理屈を重んじる「和歌的優美さを温存した上で卑俗化を行う」談林派談林派:貞門俳諧への反動「西山宗因を祖とする談林の俳諧は、貞門の俳諧の反動として起こったものである。貞門の俳諧は語戯を専らにし、そのおかしみは理知的な苦しいものであったが、宗因は俳諧の本来の面目にかえし、自由な滑稽に遊ぼうとしたのである。」--麻生磯次宗匠:西山宗因(1605-1682)拠点:大阪俳人:井原西鶴・岡西惟中・菅野谷高政西山宗因及びその門下談林派俳諧の特徴(p144)1、和歌・連歌などの古典的な束縛から脱出2、題材・用語の自由を追求3、現実に立って自由奔放な俳風を確立談林俳諧の例秋は此法師すがたの夕べかなししししし若子の寝覚めの時雨かな「あまりに自由奇抜な遊戯化していったこの派の俳諧は、「詩」としての純度を失い、自滅することになったのである。」(p145)俳壇の俳諧への反省・模索談林派はわずか十年で終焉し、俳壇は俳諧への反省と模索を始めた。模索者;池西言水(1650-1722)小西来山(1654-1716)山口素堂(1642-1716)上島鬼貫(1667-1738)共通の方向:今までの滑稽を中心とする俳諧観から脱皮模索者のそれぞれの方向池西言水(1650-1722):繊細な感覚で対象を写生小西来山:「ただごとの俳諧」山口素堂:穏健な風の俳諧上島鬼貫:俳諧に禅の道を導きいれ、「まことの俳諧」を唱えた。芭蕉と蕉風俳諧延保年間末頃から起こった俳諧革新の動きを、強力に推し進めて一つの頂点を極めたのが松尾芭蕉(1644-1694)である。(p147)松尾芭蕉は貞門俳諧・談林派の二つの流派に学んだことがあり、両派の流行と終焉を自ら経験した。1680年の冬、松尾芭蕉は芭蕉庵をかまえたごろから、俳諧に独自の道を思索し始めた。俳聖ーー松尾芭蕉芭蕉の旅と紀行文野ざらし紀行(1685-1687)鹿島紀行(1687)笈の小文(1687-1688)更科紀行(1688-1689)奥の細道(1694)芭蕉の旅1:大和、尾張の旅貞享元年(1684):関西旅行に出『野ざらし紀行』(甲子吟行)野ざらしを心に風のしむ身かなこの旅の間に、どうしても貞門・談林から抜け出して、俳諧の新風を樹立しなければならないという気分があった。芭蕉の旅2:『笈の小文』の旅西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。造化にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。『笈の小文」における俳文春の夜や篭り人(ど)ゆかし堂の隅ほろほろと山吹ちるか滝の音芭蕉の旅3:『奥の細道』の旅元禄二年(1689)三月、奥羽・北陸の旅をに出る閑かさや岩にしみ入る蝉の声象潟(きたがた)や雨に西施がねぶの花この旅が芭蕉の芸術を大きく育て、その風雅観を徹底させた。奥の細道の旅の行程地図芭蕉七部集(p148)七部集の前に出された俳諧作品集『武蔵曲』(むさしぶり)1682『虚栗』(むなしぐり)1683『虚栗』では、字余りの句や漢詩文の趣向を取り入れ、幽玄閑寂の境地に入ろうとする句境が見られる『冬の日』(1685)蕉風確立の宣言、芭蕉七部集の最初の作品『春の日』(1688)『曠野』(あらの)(1689)『ひさご』(1690)『猿蓑』(1691)蕉風の頂点を示した作品『炭俵』(1694)「軽み」の新風を拓いた作品『続猿蓑』(1698)芭蕉晩年の高悟帰俗の俳風を示した作品最後の旅芭蕉は元禄八年五月西国の旅を思い立ち、以前よりも長い旅であった。時に芭蕉は51歳、体に衰えを見せ、江戸に帰れるかという決念で旅に出、最後には旅に倒れた旅に病んで夢は枯野をかけ巡る芭蕉没後の混沌時代及び天明期俳諧の中興芭蕉没後、約七、八十年間は俳諧の混沌時代である。この時期に、俳諧は俗化の道を辿る一方であった。天明期の俳風の確立(p153)俳人:江戸:大島蓼太(おおしまりょうた)尾張:加藤暁台伊勢:三浦樗良(みうらちょら)京都:炭太祇(たんたいぎ)共同の主張:芭蕉に帰れ与謝蕪村の俳諧俳諧集<あけ烏>(1773)蕉風復興の宣言特徴:絵画的で鮮やかな俳風、浪漫的な古典趣味に溢れる(p154)蕪村の俳諧の例菜の花や月は東に日は西に夕風や水青鷺の脛をうつ蚊の声す忍冬の花の散るたびに特徴:写生的、絵画的、叙情的、近代的蕪村と芭蕉の芸術論の比較(p154)芭蕉は人生即ち芸術を心がけ、現実の生活を重んじる「高く悟りて俗に帰る」「俗を離れて俗に帰る」という境地を求めている。蕪村は芸術ははるかに現実を超えたところに存在し、浪漫的、唯美的な傾向を持っており、わりあいに庶民性、現実性に欠けている。幕末の俳諧天明期以降、俳諧はますます庶民の間に広がった。文化・文政期になると、月並み俳諧が流行し、低俗化、遊戯的な傾向が著しくなった。俳諧の新風は明治の正岡子規を待たねばならない。注目すべき俳人:小林一茶特徴:不幸の境遇から、俳句には皮肉とユーモアを多分含んでおり、愛憎の念が強く、悪者や強者に派反抗し、弱者に対しては慈悲の眼を注いでいる。

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