太宰治だざいおさむ担当者:肖晴5102211019個人紹介姓名:津島修治(つしましゅうじ)民族:大和誕生:1909年6月19日日本青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)死没:1948年6月13日(満38歳没)日本の旗日本東京都北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)墓地:東京都三鷹市禅林寺職業:小説家最終学歴:東京帝国大学仏文科中退主題:女性や落伍者の心理古典や説話のオマージュ人間の宿痾文学活動:無頼派(新戯作派)代表作:『富嶽百景』(1939年)『走れメロス』(1940年)『津軽』(1944年)『お伽草紙』(1945年)『ヴィヨンの妻』(1947年)『斜陽』(1947年)『人間失格』(1948年)処女作:「列車」配偶者:津島美知子(1938年-1948年)子供:津島園子(津島雄二妻)津島佑子太田治子親族:津島文治(兄)経歴幼年時代学生時代小説家時代青森県北津軽郡金木村(後の金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母タ子の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目(ただし太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士。津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、太宰自身は乳母らによって育てられた。幼年時代学生時代•1916年金木第一尋常小学校に入学。•17歳頃習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになった。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。戦旗を愛読した。•1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二・名義で作品を発表。この頃は他に小菅銀吉または本名・津島修治の名義でも文章を書いていた。自らの階級に悩み12月にカルモチン(安眠药)自殺を図る。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われたが、講義に出席していなかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。•1930年フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、実家からの仕送りで有る意味豪奢な生活・デカダンスを送る一方、それに対する自己嫌悪・六男坊という太宰自身の立ち位置もあいまって、マルキシズムに傾倒してゆき、当時治安維持法にて取り締まられた共産主義活動に没頭(ただし、思想自体に本気でのめり込でいたわけではない)、講義には殆ど出席しなかった。•また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りした。この頃から本名・津島修治に変わって太宰治を名乗るようになった。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍された。1933年短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選。落選理由:選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評された。「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。小説家時代1936年太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この体験は8年後『人間失格』に結実する)。1938年井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待した。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していった。太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞された。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1947年没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、斜陽族が流行語となるなど流行作家となった。1948年『人間失格』を書いた。太宰治は坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。無頼派とは?無頼派(ぶらいは)は、第二次世界大戦後、近代の既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方。象徴的な同人誌はなく、範囲が明確かつ具体的な集団ではない。新戯作派(しんげさくは)とほぼ同義だが、現在はこの呼称が一般化している。作家が権威に抵抗する意識を持ち、生活に対して自嘲と自虐の態度を持ち、もっぱら陰鬱的な作品を書き、退廃的な傾向を持つ。1930年銀座のカフェの女給・田部あつみと出会い、浅草見物など3日間を共に過ごした後、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。(2回目の自殺未遂)妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する。(4回目の自殺未遂)。1935年(26歳)、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)1948年6月13日深夜、太宰は愛人の山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水する。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。資産家の子という自己の出身階級に悩み、1929年12月10日20歳の時深夜に下宿で睡眠薬(カルモチン)で自殺したが失敗。(最初の自殺未遂)人間失格ーー生まれて、すみません•『人間失格』(にんげんしっかく)は『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。1948年に雑誌「展望」に、全3話の連載小説として発表された。脱稿は同年5月12日。•他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事の出来ない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。•戦後の売り上げは、新潮文庫だけでも累計600万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられてきた。実際、本作の後に『グッド・バイ』を書いているものの未完であり、完結作としては本作が最後である。体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説とも考えられている。しかしながら、太宰の死により、その真偽については不明な部分が多い。あらすじはしがき第一の手記第二の手記第三の手記あとがき“私は、その男の写真を三葉、見たことがある。”この書き出しから始まる文章は、幼年時代・学生時代奇怪な写真の三葉の写真を見比べている。その様子が第三者の視点で書かれている。“恥の多い生涯を送って来ました。”この書き出しから始まる。「自分」は人とは違う感覚を持っており、それに対して混乱し発狂しそうになる。それゆえにまともに人と会話が出来ない「自分」は、人間に対する最後の求愛として道化を演じる。だが、その「自分」の本性は、女中や下男に犯されるという大人たちの残酷な犯罪を語らず、力なく笑っている人間であった。結果的に「自分」は欺きあう人間達に対する難解さの果てに孤独を選んでいた。中学校時代、悪友堀木に淫売婦と左翼思想を教えられた葉蔵が銀座の女給と心中未遂事件を起こす。しかし、「自分」一人生き残り、自殺幇助罪に問われる。混乱した精神状態は続く。“人間、失格。”清らかな妻が他人を簡単に信用したため、汚辱された。このことによって彼は徹底的に崩壊した。最後に大庭葉蔵は人間としての資格を喪失する人間になって、完全に感情に任せて事を進め、堕落する人生に向かった。薬物におぼれ、買春、自殺、それから、完全に他人が理解できなくなり、それと同時に恐れるあまり、世界を放棄し、最後に精神病院に送り込まれた。ここでは、第三者の視点で記述に戻っており、手記の読後感想を書いている。恥の多い生涯を送つて来ました。自分には、人間の生活といふものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなつてからでした。„„„„自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴア、掛蒲団のカヴアを、つくづく、つまらない装飾だと思ひ、それが案外に実用品だつた事を、二十歳ちかくになつてわかつて、人間のつましさに暗然とし、悲しい思ひをしました。(太宰治、1939,126)『人间失格』に対する评価は太宰治その人自身に対する评価と同様に、肯定·否定、好き·嫌い、その両极端において盛んに行われている。それによって、この作品の评価はあまり安定しないところがある。太宰治の思想1、罪意識。太宰治の有名な言葉の1つは「生れてすみません」である。自伝と認められている『人間失格』はもっとも適当な例である。この作品の主人公の大庭葉蔵が生まれつき“へり人”だと自認した。第一の手記の始めは次のように書いた。「恥の多い生涯を送つて来ました。」太宰治は生まれながら、罪の意識を持っている。次第に大人に成長するにつれ、この意識も強くなった。2、左翼思想。津軽地方の大地主の家に生まれた彼は、左翼思想に接した後、自分の出身階級に悩み、肉親に反発するが、同時にとても頼っていた。そこには、見捨てられる事への強烈な不安感から、依存するかとおもえば、激しく攻撃するという人間関係が窺える。生まれながらの罪意識、それから、大人になってから、接した様々な思想が太宰治の思想を混乱させた。そのため、一生の中で、太宰治が四度目の自殺未遂を経験した。以上は太宰治の消極的な面と言える。しかし、太宰治はそれらの消極的な思想に反抗する精神もある。『走れメロス』はその例の一つである。濁流、山賊それから暴君ディオニスは消極的な人物の代表である。最後にメロスは彼らを全部打ち勝った。恐らく、太宰治もメロスのような人間になりたがっているのかもしれない。以上は太宰治の積極的な面と言える。太宰治の影響太宰治が無頼派のもっとも典型的な代表である。彼の消極的な思想の影響で、彼のあとについて、たくさんの人が自殺した。太宰治が生きている時にそんな女性がいた。太宰治が死んだ後もそのような人が多くなった。太宰治の文学面における影響は無視できない。太宰治の目は純粋で、自分の中にある虚偽を逸らすことをしない。彼は人間の苦悩がわかりやすく作品に刻み込んでいる。そのため、読者にとって、太宰治には特別な魅力がある。絶望するな、では、失礼。太宰治は消極的な思想を持っているが、でも人に絶望をさせない。むしろ彼の作品の主人公を通して、人々は多かれ少なかれ自分の普通にさらされないことを見られる。人間として自分の罪をすぐに直面するだけに、人間といえるわけである。