日语N1阅读1車の運転をしている人なら理解できるように、自分の前方や後方でププッとクラクションが鳴ると気になるものです。たとえば、交差点の信号が青になったのに気がつかずに、後ろから『プププープー』と長いクラクションを鳴らされたら、人によっては驚きたり、『うるさいなあ』と不快に感じるでしょう。社会心理者の木下富雄先生の書かれた『クラクションランゲージ』という論文の中に、クラクションのエピソードがあります。ある教授が道を歩いていたとき、後ろからきた車からクラクションを鳴らされた。教授は車を通すために道を譲った。ところがすれ違ったときに車はもう一度クラクションを鳴らした。人がどいてやったのにまたクラクションを鳴らすとは失礼な奴だ、と教授は怒っている。木下先生はそこで最初のクラクションは『A』という意味だが、後のクラクションは、『B』という感謝の意味のクラクションですよ、と説明をされたという話です。木下先生はこの体験から、日本では車を運転する人と運転しない人との間にマイカー文化とノーカー文化という異なる文化圏が成立しており、このエピソードは一種の文化摩擦ではないかと述べています。筆者は実験で交通状況を設定してクラクション反応を求め、状況の違いによりどのようなクラクションが存在するかを分析しました。刺激場面を実験室でスてライドプロジェクターにっよ提示させ、実験教示を聞いた後に被験者はスイッチを押してクラクションを鳴らします。細部は省きますが、分析の結果、クラクションには社会的エチッケト、安全確保、感情表現の三つのパターンがあると推定できました。非常に短い社会的エチケットのクラクション、中程度の長さの安全確保のクラクション、最も長い(0.5秒を越える長さ)感情表現のクラクションです。初心者は長さの違いがはっきりせず、安全確保や社会的エチケットと感情表現のクラクションが重なっています。また、いかなる交通状況でも、平均して0.5秒を越えるクラクションを鳴らすドライバーが一定の比率で存在しています。しかし、こういう何気ないクラクションが(中略)『この馬鹿野郎!』という挑戦的で攻撃的な意味と受け止められる恐れがあります。(注)クラクション:自動車の警告ベル(注)マイカー:自分の車(注)ノーカー:車を持っていないこと(注)刺激場面:実験で反応を導き出すための場面(注)スライドプロジェクター:スライドを映すための機械(注)被験者:実験を受けるひと日语N1阅读2問1『人』とあるが、ここでは誰のことか。1、木下先生2、ある教授3、車を運転していた人4、筆者問2『教授は怒っている』とあるが、なぜ教授は怒ったのか。クラクションの1、音がうるさかったから2、音に驚いたから3、意味を誤解したから4、意味が間違っていたから問3『A』と『B』に入る組み合わせを選べ。1、A:ありがとうB:ご苦労さま2、A:こんにちはB:しみません3、A:あぶないぞB:お先にどうぞ4、A:どいてくれB:どいてくれてありがとう問4『説明をされた』とあるが、誰が説明したのか。1、木下先生2、ある教授3、車を運転していた人日语N1阅读34、筆者問5『一種の文化摩擦』とあるが、かかではどのような意味か。1、国や文化が異なると、同じクラクションの意味が異なる2、いつ鳴らすかによって、同じクラクションでも意味が異なる3、クラクションの長さが異なると、クラクションの意味、も異なる4、運転する人と運転しない人では、同じクラクションの意味が異なる問6『クラクション反応』とは、ここではどのようなものか。1、クラクションがどのような意味を持つか2、クラクションにどのような反応をするか3、クラクションをどのように鳴らすか4、クラクションについてどう思うか『悪魔』は日本にも存在するのだろうか。日本人にとっての悪魔の概念を、国際日本文化センターの山折哲雄教授(宗教学)に本誌、羽賀神朋子が聞いた。善悪の感覚について、日本には、ユダヤ教やキリスト教の悪魔に相当するものは存在しない。日本にも鬼というものはあるが、これには『悪』の側面と同時に『神』の側面もあり、神はときに鬼の面をかぶって他界からやって来たりする。つまり善とは悪に対立せず、ダブルイメージとしてお互いに融合し互換可能な関係にある。これが日本人の善悪に関する考え方の一つのメルクマールだ。仏教の思想について、仏教では、地獄に堕ちた者でも仏の慈悲により直ち往生できるようにさまざまな救済措置が用意されている。地獄に堕ちた悪魔的な人間が永久に閉じ込められているキリスト教的な考え方とは、この点が大きく異なる。日语N1阅读4こうした仏教の考えを背景としているため、善悪にあまりこだわるべきでないという考え方が日本人にはある。宗教の極地は善悪を越えたかなたに存在し、善悪はむしろ世俗的な問題だ、というわけだ。善悪にこだわるのは、生き方の本質ではないと考えられてきたのである。そのため日本人には絶対的な悪の観念がなく、根源的に悪を掘り下げ突き詰めていくという思考形態も培われていない。それで子どもに悪魔という名前をつけるような、悪の『遊び化』といった現象も起こる。オウム事件について、オウム真理教のような事件はある意味で、キリスト教やユダヤ教で問題にされてきた『悪』が眼前に現れてきたような出来事だった。事件を機に、日本人は初めて『根源悪』ともいうべきものに直面し、人間の悪の姿に気づきはじめたといえるのではないか。だから今回の事件でも、非常にヒステリックに反応するばかりで、オウム抹殺論のような極端で幼稚な議論しかできない。逆の言い方をすれば日本人はこれまで、そのくらい幸福だったともいえる。そういう人生観を今後ももっていけるなら、それはそれで必ずしも悪いことでない。さらにこうした楽観的な考え方が世界のものになれば、世界全体は平和になるのかもしれない。そうはいないのが現実なのだが。難しい言葉悪魔:あくま/恶魔,魔鬼ユダイ:犹太懲らしめる:こらしめる/制裁を加えて懲りるようにさせる/惩罚,教训ダブルイメージ:二重の印象/双重印象慈悲:じひ/慈悲往生:おうじょうこの世を去って他の世界に生まれ変わること。特に死後、極楽に生まれること。(佛)极乐掘り下げる:ほりさげる/突っ込んで考える。深く究明する。/深挖,深入思考培う:つちかう/能力や性質を養い育てる。育成する。/培养,培育ヒステリック:ヒステリーを起こしているさま。また、興奮して、極度に感情の高まっているさま。/歇斯底里抹殺:まっさつ/人や事実などの存在を否定し、消し去ること。/抹杀,勾消【読解練習】前の文章を読んで、後の問いに答えなさい。下線のある部分にどれを入れるか、1、2、3、4から最も適当なものを一つ選びなさい。1、日本人の感覚からいえば、____________。日语N1阅读51)鬼は『悪』である2)鬼は『善』である3)悪魔はかならずしも悪いものではない4)『鬼』は『神』と同じものである2、日本人の善悪に関する考え方と合っているものはどれなのか。1)善と悪をはっきり区別するのは無意味である2)善と悪は対立している3)善と悪は一つになることはできない4)善と悪は同じものである3、山折哲雄教授からみれば、日本人の善悪に関する考え方はどれなのか。1)世界平和につながるかもしれない2)幼稚なものである3)積極的な面がある4)世界のものになれる4、日本人はオウム事件を___________。1)冷静にとらえている2)きっかけに反省しはじめている3)いろいろ議論してきた4)『鬼』の代表と見ている5、『ユダヤ教やキリスト教の悪魔に相当するものは存在しない』にある『相当』日语N1阅读6の意味と合っているものはどれなのか。1)お互いに向きあうこと2)相対する関係にあること3)両者の関係がつりあうこと4)両者が『ほぼ』同等の資格や働きを持つこと6、『そうはいかないのが現実なのだが』にある『そはいかない』と一番意味の近いものはどれなのか。1)日本人はこれから幸福になれない。2)これまでの善悪の考え方がこれからもっていけない3)世界のものになれない4)世界全体は平和になれない【読解練習の参考答案】1(3)2(1)3(3)4(2)5(4)6(2)本期读解1的翻译本杂志的宇贺神朋子采访了国际日本文化研究中心的山折哲雄教授:在日本是否真的存在恶魔。(山折哲雄教授作了如下回答)关于恶魔的感觉--在日本是不存在相当于犹太教或基督教中的恶魔的。在日本虽然有鬼一说,但是在鬼的一说中存在邪恶的一面的同时也存在神的一面,在对人类实行惩罚的同时也会保护人类。比如,在传统艺能或宗教的仪式中,神有的时候就会戴着鬼的面具从他界而来。简言之,善与恶并不是对立的,而是作为双重的身份相互融合,并存于可能转换的关系之中。这是日本人关于善恶的一种思维方式的印记。日语N1阅读7关于佛教的思想--在佛教中,即使是深陷地狱的人,由于佛的大慈大悲,为使其能够超脱,会有各种各样的拯救方法。在这一点上,其思想与深陷地狱的罪恶之人永世也不得超脱的基督教思想是截然不同的。由于以这样的佛教思想为背景,日本人认为并不应该局限于善与恶,在宗教之极尽处存在着超脱于善恶的彼地,而善恶则只不过是世俗的一种观点。日本人认为仅受限于善恶这种想法并不是生存的本质。正是由于这个原因,在日本人的思维中,并不存在绝对的恶的观念,也并没有追究恶的根源这种思考形态。所以就出现了像给孩子起恶魔名字那样的恶魔游戏这样的现像。关于奥姆事件--像奥姆真理教那样的事件,在某种意义上,出现了犹太教和基督教中的恶魔。以这件事为契机,可以说日本人开始直面应该称之为“根源恶”的事实,开始意识到人类邪恶的一面。所以对于这次事件,全是一些歇斯底里的反应或像奥姆抹杀论那样的极端幼稚的论调。如果换一种说法,也可以说日本人至今都是非常幸福的。如果他们今后也怀有那样的人生观生活下去的话,也未必是件坏事。甚而如果这种乐观的思维方式如果可以成为世界的一种思维方式的话,也许全世界都会和平。但这是不可能的却也是一种现实。野薔薇小川未明大きな国と、それよりすこし小さな国とが、となり合っていました。当時、その二つの国の間には、何事も起こらず、平和でありました。ここは、都から国境であります。そこには、両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は、老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。二人は、石碑の建っている右と左に、番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしか、その辺を旅する人影は、見られなかったのです。初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は、敵か味方かというような感じがして、ろくろくものも言いませんでしたけれど、いつしか二人は、仲良しになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく、たいくつであったからであります。そして、春の日は長く、うららかに頭の上に照りかがやいて日语N1阅读8いるからでありました。ちょうど国境の所には、だれが植えたということもなく、一株の野薔薇が茂っていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その速い羽音が、まだ二人のねむっているうちから、夢心地に耳に聞こえました。『どれ、もう起きようか。あんなに蜜蜂がきている。』と、二人は、申し合わせたように起きました。そして、外へでると、果して、太陽は、木の梢の上に元気よくかがやいていました。二人は、岩間から湧き出る清水で口をすすぎ、顔をあらいにまいりますと、顔を合わせました。『やあ、おはよう。いい天気でございますな。』『本当にいい天気です。天気がいいと、気持ちが清々します。』二人は、そこで、こんな立ち話をしました。互いに頭をあげて、辺りの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感じを、見るたびに心にあたえるものです。青年は、最初、将棋の歩み方をしりませんでした。けれど、老人についてそれを教わりましてから、このごろは、のどかな昼ごろには、二人は、毎日向かい合