时间存在(细川亮一)

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時間と存在(細川亮一)ⓒHeidegger-Forumvol.2200816時間と存在1細川亮一(九州大学)発表の表題である「時間と存在」という言葉は、ハイデガー『存在と時間』第一部第三編「時間と存在」を指している。この未刊の第三編に関して、何が論じられることになっていたか、そして何故未完となったのか、等の問題がある。ここでは現行の『存在と時間』の最終節(第83節)から出発しよう。この節から第三編「時間と存在」へと移行することになっていたのだから。一『存在と時間』最終節最終節の表題は「現存在の実存論的-時間的分析論と、存在一般の意味への基礎的存在論的問い」である。この表題は『存在と時間』第一部の表題「時間性に向けて現存在を解釈することと、存在の問いの超越論的地平として時間を解明すること」に対応している。最終節は『存在と時間』のこれまでの歩みを振り返り、基本的な二つの問いを問うている。その問いに答えることが、第三編の課題となる。(1)「存在論は存在論的に基礎づけられるのか、それとも存在論はそのためにも存在者的基礎を必要とするのか、いかなる存在者がこの基礎づけの機能を引き受けねばならないのか」(GA2,576)2。(2)「一つの道が根源的時間から存在の意味へと通じているのだろうか。時間自身が存在の地平として露呈するのだろうか」(GA2,577)。この二つの問い(1)(2)について重要なことを確認しよう3。まず二つの問いが第三編1本稿は第二回ハイデガー・フォーラムの発表原稿(2007年9月22日)のままである。電子ジャーナルに掲載するにあたり、新たに註を付した。註は、ハイデガー・フォーラムにおける発表・質疑、そして懇親会等での会話を踏まえている。発表と註は、拙著『意味・真理・場所』(創文社、1992年)と『ハイデガー哲学の射程』(創文社、2000年)を前提している。しかし私の以前の理解より、より明確な解釈が得られたと思っている(少なくとも私にとって)。ハイデガーを考え直すよい機会を与えてくださったことに、そして京都での充実した二日間を与えてくださったことに、森一郎氏ならびにハイデガー・フォーラム実行委員会の方たちに、心より感謝します。2GA:M.Heidegger,Gesamtausgabe,VittorioKlostermann.HJ:Briefwechsel1920-1963/MartinHeidegger,KarlJaspers,VittorioKlostermann,1990.H:E.Husserl,Husserliana:gesammelteWerke.3ハイデガーはこの二つの問いが彼独自の問いであることをはっきり自覚していた。「存在論が存在者的にのみ基礎づけられると私は確信している。そして私以前の誰もこれまでにこのことを明確に見なかったし述べなかった、と私は思う。…」(1927年8月20日のレーヴィット宛の手紙)(D.時間と存在(細川亮一)ⓒHeidegger-Forumvol.2200817において論じられることになっていた、ということである。1927年夏学期講義『現象学の根本問題』は「『存在と時間』の第一部第三編の新たな仕上げ」(GA24,1Anm.1)とされている4。この講義の第三部第一章は「存在論の存在者的基礎と基礎的存在論としての現存在の分析論」(GA24,33)という表題である。ここから(1)の存在者的基礎の問題が第三編で主題となること、さらに(1)が「基礎的存在論としての現存在の分析論」と関係していることが読み取れる5。(2)の「存在の意味への問い」は、第21節において、答えへの試みがなされる6。その節の表題は「テンポラリテートと存在」であるが、この表題は「時間と存在」という第三編の表題と正確に対応している7。この二つの問いは、基礎的存在論という『存在と時間』を導く主導的理念に深く関わっている。基礎的存在論は現存在の分析論に求められる、という論点が、(1)において問題となっている。そして基礎的存在論の最終的な狙いは「存在一般の意味への基礎的存在論的問い」(GA2,575)に答えることであるが、その課題が(2)において語られている。基礎的存在論の理念は、「現存在の分析論としての基礎的存在論」と「存在の意味への問い」という二つの論点を含んでいるが8、それが最終節において(1)(2)として問われているのである。第三編「時間と存在」について考察することは、(1)(2)を主題とすることである。さらに(1)「現存在の分析論」と(2)「存在の意味への問い」の関係を押さえておこう。『存在と時間』最終節で(2)の直前に次のように言われている。「現存在全体の実存論的‐存在論的体制は時間性に基づく。従って脱自的時間性自身の根源的な時熟の仕方が、存在一般の脱自的企投を可能にするはずである」(GA2,577)。現存在の存在の可能性の条件は時間性である(『存在と時間』第一、二編の成果)。存在理解は現存在に属する。それ故時間性は現存在に属する存在理解の可能性の条件である。PapenfussandO.Pöggeler(eds.),ZurphilosophischenAktualitaetHeideggers,Vol.II,VittorioKlostermann,1990,S.36)。「『存在と時間』において存在の意味への問いが哲学の歴史において初めて問いとしてことさらに立てられ展開されている」(GA40,89)。4「この講義(『現象学の根本問題』)の全体は、『存在と時間』第一部第三編「時間と存在」の一部をなす」(GA9,S.134Anm.b)。Vgl.GA2,55Anm.a;GA66,413-414.5「そこからすべての他の存在論が初めて発することができる基礎的存在論は、現存在の実存論的分析論のうちに求められねばならない」(GA2,18)。「現存在の存在論的分析論がそもそも基礎的存在論を形成している」(GA2,19)。6『現象学の根本問題』において存在の意味への問いは次のように性格づけられている。「単に存在者からその存在へと進み、遡るだけでなく、我々が存在理解そのものの可能性の条件を問う場合、さらに存在を超えて、存在それ自身が存在としてそれへ向けて企投されるそれ(woraufhin)を問うのである」(GA24,399)。7『意味・真理・場所』177-178頁、257-258頁参照。8「基礎的存在論は存在論的-存在者的に卓越した存在者、つまり現存在を主題とするが、それは基礎的存在論が重要問題、つまり存在一般の意味への問いの前に自己をもたらすという仕方でである」(GA2,50)。「現存在を主題とする」とは(1)であり、「存在一般の意味への問いの前に自己をもたらす」とは(2)である。同じことは『存在と時間』第5節の表題「存在一般の意味を解明するための地平の露開としての現存在の存在論的分析論」からも読み取れる。つまり、(1)現存在の存在論的分析論、(2)存在一般の意味を解明するための地平の露開。時間と存在(細川亮一)ⓒHeidegger-Forumvol.2200818存在の意味への問いはこの条件を問うのである。存在理解の可能性の条件として機能するかぎりでの時間性がテンポラリテートと呼ばれる9。テンポラリテートは存在理解を可能にする時間性であるが、時間性は「現存在の存在の意味」である。そうであるとすれば、「存在のテンポラリテートを仕上げること」(GA2,26)10は現存在の分析論に属する。『存在と時間』第一部は全体として「現存在の分析論」である。第一編、第二編は「現存在の実論論的-時間的分析論」である。それに対して第三編「時間と存在」は「現存在のテンポラールな分析論」と呼ぶことができる。それは同時に「存在のテンポラリテートの分析論」(GA26,201)である。(1)(2)という基礎的存在論の二つの中心論点は、アリストテレス哲学との関係に即して言うならば11、『形而上学』の二つのテーゼに密接に関係している。(a)「或る不動の実体が存在するならば、これを対象とする学(神学)がより先であり、第一哲学である。そして神学は第一であるが故に、このような仕方で普遍的である。そして存在者を存在者として研究すること、存在者とは何かを研究し、存在者に存在者として属するものを研究することが、この学に属する」(1026a29-32)。(アリストテレス『形而上学』第六巻第一章)(「第一哲学」テーゼ)(b)「存在者は多様に語られる、しかし一との関係においてである」(1003a33)。(『形而上学』第四巻第二章)(「プロス・ヘン」テーゼ)9Vgl.GA24,323-324,388-389,397,436.10「存在そのものの解釈という基礎的存在論的な課題は存在のテンポラリテートを仕上げることを含んでいる。テンポラリテートの問題構制の呈示の内で初めて存在の意味への問いの具体的な答えが与えられる」(GA2,26)。11基礎的存在論の理念に関してだけでなく、『存在と時間』の多くの論点がアリストテレス哲学を抜きにしては理解できない。それ故、第二回ハイデガー・フォーラムの特集「アリストテレス―ハイデガーと古代ギリシアⅠ」は不可欠な課題である。ここで坂下浩司氏が言及された一つの問題について語りたい。それをめぐる私の発言が誤解されたかもしれない、と危惧するからである。「欲求は…「気遣い(Sorge)」という概念に対応するギリシャ語だ」と私自身考えている。言いたかったことは、このように考えるに至った問題意識である。私を動かしていたのは、「『存在と時間』での基本術語、例えば「気遣い(Sorge)」に対応するギリシャ語は何か」といった一般的な問題でなく、『存在と時間』の一つの註を理解するという特殊・具体的な問題である。「これまでの現存在の実存論的分析論において従った『気遣い』への視向が著者に生じたのは、アリストテレスの存在論において到達された原則的な基礎を顧慮して、アウグスティヌスの、つまりギリシア的-キリスト教的な人間学を解釈する試みの連関のうちでだった」(GA2,264Anm.3)。「アリストテレスの存在論において到達された原則的な基礎」とは何か、ということが私には謎だった。この言葉からすぐにアリストテレス『自然学』に導かれるが、しかし『自然学』によっては「『気遣い』への視向」を理解できないからである。この謎を解く鍵を私は、『デ・アニマ』の「オレクシス(欲求)」に見出した。こうした解釈に対して、私の知らなかったGA62を検討した坂下氏が賛成してくれたことは、私にとって嬉しいことである。ともかく「気遣い(Sorge)」をどう解釈するにしろ、その解釈は同時に上述の註を理解させるものでなければならないし、新たに出版された当時の講義録や草稿(GA60,GA61,GA62,GA22)の解読に基づかねばならない。Worumwillen→Willeという解釈は、意志概念がギリシア時代になかったという重要な問題を別にしても、この註に光りを当てるとは思えないし、当時の講義録・草稿によっても支持されないだろう。時間と存在(細川亮一)ⓒHeidegger-Forumvol.2200819(1)の問題は(a)の「第一哲学」テーゼの問題圏のうちを動いている。つまり「存在論‐神学」の二重性という形而上学の問題圏に属する。(2)の問いは「プロス・ヘン」テーゼを根源化することによって成立する。この発表では(1)-(a)の問題だけを論じることにしたい。「第一哲学」テーゼはハイデガーの思惟の道全体を規定しているが、ここでは『存在と時間』の前後の講義、つまり1924/25年冬学期講義『プラトン『ソピステス』』と1928年夏学期講義『論理学』から、「第一哲学」テーゼへの言及を引用しておこう。ハイデガーの問いの特徴は、神学から出発せず、存在論から出発して、そこから何故神学がともに第一哲学に属するのか、と問うことであ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