社会学危机

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「社会学の危機」から、「理解の」ダーウィニアン社会学へ・序説桜井芳生sakurai.yoshio@nifty.com040730社会学の危機?•日本語圏で、社会学者をやっているとあまり気にならないかもしれないが、英語圏での社会学情報にふれるといやでも目にはいるのが「社会学の危機」の問題である。•多くの大学で、社会学部がリストラされたり、大書店の社会学の棚がごぞっと、カルチュラル・スタディーズの棚にラベルがえされたり、理論・方法論レベルでも、ゲーム論・新古典派経済学的方法に席巻されるかのようにみえたり、、、、と、「社会学」のラベルは、あまり景気がいいとは感じられない。•そのような「社会学の危機」をめぐる論調のなかで、よく言及されるのが、コスミデス・トゥービーによる、「標準的社会科学モデル(SSSM)」批判の議論だろう。コスミデス・トゥービーによる、「標準的社会科学モデル」批判•社会科学においても進化的な視点が不可欠であるという主張を体系的かつ精力的におこなったのは、TheAdaptedMind(Oxford,1992)に収録されたトゥービーとコスミデスの論文“ThePsychologicalFoundationsofCulture”である。•このなかで、彼らは「標準社会科学モデルSSSM」を批判し、「統合因果モデルICM」という、進化心理学を基盤とし、自然科学と社会科学とをつなぐ試みを提唱した。•進化心理学とは、進化生物学の適応主義のアプローチをとり認知科学の手法を取り込んだ研究で、人間の肉体的形質だけでなく、心的なはたらきの多くも進化の産物であり、領域特異的、内容依存的な多数の適応的モジュール(つまり、一般的な能力を多数の特殊的なケースに応じて使い分けるのではなく、この課題にはこの能力、別の課題には別の能力というように、特殊化された能力の集まり)からなると見なす。•こういったモジュールからなる••(1)「人間本性」は文化の違いを越えて人間に普遍的であり、••(2)これがなければ特殊な文化の成立や学習も不可能であるし、また••(3)これを無視しては自然科学と整合的な社会科学も成り立たない、•というのが彼らの中心的主張である。(内井による)。•筆者は、彼らのSSSM批判は、かなり当たっていると感じる。いままでの社会学をはじめとする社会諸科学は、進化論をはじめとする自然科学的人間認識の成果を不当に軽視してきたと、感じる。•しかし、本論において、この点を争おうとはおもわない。この種の「伝統をいかに評価するか」という問題設定は、「いや(生物学的認識をふまえた)このような事例もある」「いやいや、(まさに生物学的認識を無視した)あのような事例がある」という、事例提起の水掛け論になりそうな予感がするからだ。そして、あまり生産的でない議論になってしまいそうな予感がするからだ。•本稿で行いたいことはそれではない。•そうではなくて、社会学の伝統にある中核部分が、近代科学についてのある種の思いこみによって、不当に軽視されたきたのであるが、•その部分を、まさに、現代ダーウィニズムを援用することで、再評価することができるのではないか、ということである。•その中核部分とは、理解社会学的方略である。現代ダーウィニズム援用による、理解社会学の再位置づけ•ここでは、とくにわれわれ社会学者にとって、大きな意義をもつある問題をめぐって、現代ダーウィニズムがどのような援用可能な理説であるのか、を示してみたい。•そうすることで、理解社会学をはじめとする社会学的方略への、懐疑が、(完全に払拭されるとはいかなくても)かなり軽減し・異なった様相でみえてくるということを示してみたい。(理解)社会学への懐疑•理解社会学をはじめとする近代社会学の方略は、他の諸経験科学から、(経験)科学に値しないものとしてみられていたのではないだろうか。•これには、さまざまな理由があるだろうが、大きな理由としては、社会学の(すくながらずが)当事者の思念された意味をも照準する「理解社会学」的方略をとっていたことと関連するとおもわれる。•ただし、ここで、注意すべきことがある。理解社会学者にも、その批判者にも、かならずしも明確に自覚されていたなかったともおもうが、理解社会学的方略を理由とする社会学の(非)科学性への懐疑には、じつは、少なくとも「二つのレベル」がありうるのである。•第一は、理解社会学的方略を選択するというまさにそのこと自体を必然的な理由として、そのような(自称)科学は、近代経験科学に値しない、とする立場である。•第二は、第一のようにはかんがえないが、「理解社会学的方略を選択したことによるほぼ必然的な帰結として、学理上の難点(端的にいえば、「他我理解問題」)に逢着するがゆえに、理解社会学は、科学に値しない」とする立場である。•この二つの論点は、非常に似通ってみえるので、ほとんどの場合は、分別さえてこなかっただろう。•しかし、以下のべるように、この二論点を、分別することは、エッセンシャルであり、かつ、このように二論点を分別すれば、•現代ダーウィニズムの進展が、理解社会学の擁護に資するものであることが、より容易に理解できるようにおもわれる。•第一の論点から、触れてみよう。これは、いってみれば、「たとえ、他我理解問題のような難点に逢着しないとしても、そもそも、分析対象である社会(や、その構成個人)を、意味的に理解しようとする方針自身が、近代経験科学に値しない」というものである。•これは、じつは「そもそも」論なので、反論しようがない。近代経験科学の「定義」(要件の一つ)を、「分析対象を意味的に理解しようとしない」ということにしてしまえば、定義の約定問題に帰着してしまい、反論しようがない。が、また、その主張自体は、恣意的なものにすぎなくなってしまう。•というわけで、じつは、なぜ、このような理説が説得力をもつようにみえるのか、ということからさぐって、再検討してみよう。•この点に関しては、現代ダーウィニズムにおける「心の理論」アプローチが啓発的である。セオリーオブセオリー、と、セオリーオブマインド•現代ダーウィニズムにおいては、当然のことながら、われわれヒトによる認識も、かれらの環境への適応形態の一種としてとらえられる。•当然のことながら、ヒトの認識能力もさまざまな下位種類のものが存在する。が、とくにそのなかで、いわば生得的に二つの大きな認識能力をわれわれヒトをはじめとするある種の生物たちはもっていると、現代ダーウィニストたち(のある者たち)はかんがえる。•論者によって、呼び方はさまざまだが、一つは、セオリーオブセオリーであり、ふたつめは、セオリーオブマインドである。•前者は、外界をいわば、「物」として把握する認識法である。そこにおける「物」は、古典力学における物質概念と驚くほど類似している(というか事実としては、前者を心理的基盤として古典力学が発想され、前者の物質概念とほとんどおなじであるゆえに容易に、古典力学は、普及したのだろう)。であるがゆえに、素朴物理学とも、呼ばれる。•後者は、対象をいわば「心ある者」として把握する認識法である。すなわち、ヒトは、生得的に(かなり幼児のときから)外界のある部分対象を、心ある者としてその心理を探ろうとする、「素朴心理学」者であるとする、かんがえかたである。•上記の理解社会学への第一の非難とは、経験科学である以上は、この二種の認識のうちちの前者のみを働かせるべきである、という暗黙の前提にたっていたのではないだろうか(それ以外に、この「第一の非難」が少しでも説得的に響く理由をかんがえられるだろうか)。•事実として、近代科学(とくに古典力学)は、この素朴物理学の延長上に発展し、大きな成功をおさめた。•しかし、だからといって、科学たるもの、素朴物理学的認知法にのみよるべきで、素朴心理学的認知法にもとづくべきでない、とかんがえるだとしたら、それは、(過去の)事実から、当為を導出してしまう、いわゆる「自然主義的誤謬」ではないだろうか。•むしろ、科学的認識か、そうでない認識か、の線引きには、「素朴物理学、か、素朴心理学、か」という線引きは、必然的にはむすびつかない、と私はかんがえる。むしろ、ポパー的な「反証可能な仮説構築→そのテスト→仮説の保持/棄却→改訂仮説構築、、、」といったてつづきこそが、科学的認識の線引きにはふさわしいとかんがえる。•上記の素朴心理学の延長上で、このような「仮説→テスト」的手続きを遂行することには、とくに論理的な不可能性はみいだせない、と考える。もちろん、「事実上」は、素朴物理学のラインでの「仮説→テスト」手続きの方が前者よりも親和的かもしれない。•しかし、物理学的世界認識がある程度成功した今日においては(この方途の「限界効用が十分逓減してしまった」今日においては)、「意味」的な(すなわち素朴心理学の延長上での)科学的認識が試みられるべき時にきていると私は考える。(ここまでの議論は、LSEにおけるバドコック博士の授業に大いに負っている。記して感謝いたします)。•こうして、第一の論難から、現代ダーウィニズムを援用することによって、理解社会学的方略は、擁護される、と思う。第二の論難に対して•第二の論難は、以下のようなものであった。たとえ、理解社会学を、ただたんに理解社会学であるゆえにのみ論難しないにせよ、その方略のほとんど必然的な帰結として、大きな難点にそれは、逢着する。すなわち、他者の思念する意味をどう理解するのか(理解できるのか)、という難点である、と。•この難点について、現代ダーウィニズムは大きな啓発をもたらして、くれる。ただし、それによって、この難点が完全に解消されるか、というとそこまでの自信はない。•しかし、現代ダーウィニズムとくにハンフリーの心の目理論を援用すると、この他我理解の難点がかなりちがったようにみえてくるだろう。その結果、この点の困難性は、かなり軽くみつもられるようになるとかんじられる。•すこしさきばしってしまった。この他我理解の困難性が理解社会学への難点になると感じるということ自体、じつは、ある暗黙の前提によっているのではないだろうか。すなわち、各人は、自分の行為にたいする自分の思念する意味をその内心におのおのもっている、という図式である。•すなわち、明証的に理解しているはずのものを、その内心のそとからいかにして、それに近似するか、ということになってしまう。•しかし、ハンフリーの視点からは、そうではない。もともと、他個体の振る舞い予測のための方略として、意味理解が進化したと考えられる。しかも、この他個体把握における意味利用は、近代科学の仮説=テスト図式に親和的である。•ここで(も)、心の理論とよばれる、一連の認知についてのアプローチをおこなっている、現代ダーウィニストたちの議論が参考になる(以下は、Baron-Cohen1995,Dennett1996,•Humphery1986,をまとめたものである)。•ここに他個体をふくむ外界を認識しているある動物がいたとしよう。この動物は、外界を上述の「民間物理学」的にも認識しているだろう。•が、たとえば、補食者(ライオンなど)が、彼をたべようとおそってきたような場合には、民間物理学的な認識をしていては、間に合わない。ライオンのある種の振る舞いをみて、自分をたべ「ようとしている」という、いわば、意図を(先)読みするような認知法が、彼の生存に資するだろう。•これは、同種間(群れ内外とか)のやりとりにおいても、このような認知法が有利である場合が多いだろう。このような認知法を、デネットやバロン=コーエンは、「意図のスタンス」と呼んでいる。•ここで、重要なのは、この「意図のスタンス」による認知が有利にはたらくためには、その補食者なりやりとりの相手なりのいわば「内心」に実際にそのような「意図の自覚」があることは、まったく必要条件ではない、ということである。•そしてまた、事実上・進化史上におい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