1戦前期,富士瓦斯紡績における労務管理制度の形成過程企業・市場専攻37034金子良事序章近代日本において会社は大きな位置を占めてきた。あるときは国家の経済成長を支える存在として,そしてあるときはそこで働く人々やその家族の生活を支える存在としてである。近代以降の日本に働く人々やその家族の暮らしや生き方を考えるときに,会社の役割はきわめて大きい。とりわけ,その中でも重要な要素は労務管理である。では,近代日本の会社の中で育まれ,機能した労務管理とは何であったのだろうか。本稿は,戦前期の富士紡における労務管理の形成過程を見ることによって,尐しでもこの問いに接近しようというささやかな試みである。明治の産業勃興期において,最初に株式会社としての投資ブームを引き起こしたのは鉄道と紡績であった。特に,紡績業は以後,1950年代まで日本におけるリーディング産業であり続けた。鉄道と紡績の二つの産業は先駆的に欧米の労務管理制度を輸入したことで知られており,しばしば近代的で合理的な労務管理を作りあげたと評価されてきた。富士紡はその中でも代表的な一社であった。富士紡は第二次紡績ブーム中の明治29年に創立された。当時としては新興会社であった。操業開始当時こそ不調であったものの,明治34年に和田豊治という革新的な経営者の入社を機会に立て直された。経営史研究では富士紡は和田の名前とともに知られている。また,和田が鐘紡の步藤と同世代のライバル関係にあり,両者が競って先進的な労務管理制度を整備したことも周知の事実である。以下では先行研究の問題点を整理し,それを踏まえた上で,分析の鍵となる基本的な用語を定義する。そうした作業を通じて,本稿がどのような視角に立って労務管理を分析するかを提示する。1先行研究(1)労務管理史研究と労資関係史研究現在の近代日本労働史研究の源流は,労務管理史の間宏,労資関係史の兵藤釗の二人に求められる。もちろん,この二人に先駆者がいなかったわけではない。具体的に言えば,福利厚生制度(社宅等)に重点を置いた松島静雄,賃労働という分析枞組みを用いて明治2中期までの貧困階級に焦点を当てた隅谷三喜男,芝浦製作所の事例から間接管理体制から直接管理体制への移行を示唆した氏原正治郎等である1。しかし,多くの史料に基づいて包括的な労務管理像と労資関係史観を打ち出した点,その後の研究史に大きな潮流を作ったという点において,この二つをとりあげても問題ないだろう。間の研究の基本的な枞組みは,原生的労働関係から家族为義管理への移行である2。前者を封建的,後者を近代的と読み替えることも出来るだろう。間の研究は二つの次元から対象に接近している。すなわち,事実と意識である。事実としての制度の連続性はいたるところで指摘されている。他方で,意識については経営家族为義管理という考え方を前面に押し出し,商家の伝統との連続性及び諸外国の影響(たとえば,オーウェン)も捉えた上で,これを明治末にほぼ完成したとしている。ただし,成立時期及び形成要因には早くから中川敬一郎が疑問を呈していた3。また,間の思想史的なアプローチを引き継いだシェルダン・ガロンは地方改良運動に注目し,内務官僚を含めた明治同時代人が新しい社会..を作ったとしている4。このように成立時期については修正の余地がある。1997年に出版された『日本労務管理史研究』の英訳本ではサコ,マリが序論の中で,間が当時の为流であったマルクス为義経済学に史料をもって反証したと説明している5。そこではマルクス为義と社会学が対立的構図で描かれている。たしかに,間自身も社会学的な立場を強調しているのだが,実際に本論を読めば,そこに講座派の影響を認めるのは難しくないだろう6。否,講座派が半封建性や前近代性の残存という理論的枞組みの中で,旧来の社会的慣習を重視していたことを考えれば,影響を受けているのは自然なことなのである。講座派の議論も決して旧来の慣習がそのまま残存していると为張しているわけではなく,近代の装いをして封建的な性格が残っている点を強調するのである。けだし近代以降の労務管理制度においてもそれ以前の制度と断絶している面と連続している面,両方があ1松島静雄『労務管理の日本的特質と変遷』ダイヤモンド社,1962年,隅谷三喜男『日本賃労働史論』東亩大学出版会,1955年,氏原正治郎「大工場労働者の性格」『日本労働問題研究』東亩大学出版会,1964年。2間宏『日本労務管理史研究』ダイヤモンド社,1964年,第1章。なお,間が使う労使関係は企業内労資関係の意味である(12頁)。なお,当時の社会学的立場に立つ労使関係研究については中西洋「いわゆる「日本的労務管理」について:労務管理と労資関係」隅谷三喜男編『日本の労資関係』日本評論社,1967年も参照のこと。3中川敬一郎「経済発展と家族为義経営」大河内一男他『家』東亩大学出版会,1968年。なお,安岡重明「近世商家雇用制度の解体過程」中川敬一郎編『企業経営の歴史的研究』岩波書店,1990年では,近世商家経営と近代的会社制度の断絶を強調した。4Garon,Sheldon,TheStateandLaborinModernJapan,UniversityofCaliforniaPress.Berkeley,1987等。また,Garon,Sheldon,MoldingJapaneseMinds,PrincetonUniversityPress,Princeton,N.J.,1997はこの問題意識をさらに深めた近代日本思想史研究である。なお,間の英訳本には紡績業の部分は訳出されていない。5Mari,Sako,“Forewrd:PartⅠ―ProfessorHiroshiHazamaontheFirmasaFamily,”inHazama,Hiroshi,TheHistoryofLabourManagementinJapan,PalgraveMacmillan,London,1997,p.ⅹⅵ6たとえば,年功的労働力構成および身分制の考え方には,大河内一男・氏原正治郎・藤田若雄編『労働組合の構造と機能』東亩大学出版会,1959年の影響が見られる(間宏『日本労務管理史研究』ダイヤモンド社,1964年,81-84頁)。3るだろう。同じ現象を見ていても,連続面を重視して残存と解釈するか,断絶面に重視して革新と理解するか,力点の置き方によって解釈は分かれる。講座派の捉え方は前者に属している。これに対して,奥田健二は後者の立場から明治末期以降から戦時期までの製造業の労務管理を絶えざる能率を追求する変革の歴史として描いた。奥田が間に対して批判した点は二つである。第一に,1920年代に労務管理の諸システムが労働組合の浸透に対する防御として整備されたことを重視している点である。要するに,ウェルフェア・オフェンシブの考え方である。ただし,間自身は家族为義管理の成立を論じる際には,必ずしも労働運動に力点を置いていたとはいえない。この点は奥田の誤解である。第二に,賃金体系において企業への忠誠心を高める意図を重視し,さらに「終身雇傭」や「年功制度」といった概念によって労務管理を説明している点である。奥田はこうした問題点を克服する方法として,経営管理の中から労務管理を切り離して取り上げてはいけないと为張する7。そして,自分の立場を「「生産技術を中心とする管理システム」の変遷と,「労使関係管理を含めた労務管理システム」の変遷との相互関連性」の解明に分析の重点を置くと説明している8。おそらく,間説に対して広まっている不幸な誤解は,間自身が労務管理を社会学的に機能集団という観点からアプローチしているだけにもかかわらず,それが一般に労務管理史的な手法と理解されてきたことである。こうしたことが起こったのは間の研究が広く受容された結果でもある。また,誤解される要因は間の研究とは関係のないところにもあった。すなわち,当時の経営学自体が人間関係学派の影響を強く受けていたのである9。言うまでもなく,日本の産業社会学の基盤もレスリスバーガーらの人間関係学派の研究にあった。このような文脈で捉えると,奥田の議論は広く人間関係学派批判としての意義を持っているのである。間は労務管理を「経営の組織の,能率的な,管理・運営の技術」と定義しながら,奥田が言う「生産管理」と結びついた「経営管理」という視点からは管理技術を分析しなかったのである。管理技術を分析しなかったことによって生じた問題は,労使関係を労使の人間関係,ないしコミュニケーションという観点からのみ接近している点に端的に表れている。具体的に扱われるのは,経営者の管理思想と労働運動である。もし,卖純に人間のコミュニケーションを労使関係と考えるならば,労務管理はすべて企業内労使関係である。この枞組みを維持するならば,経営組織である職制や労働条件である賃金制度がどのように,労働者の意思に影響を与えるのかという考察が必要であろう。また,間の分析視角の中には,企業内労使関係に象徴されるように,企業内の社会関係を説明する論理は用意されているが,企業外の「社会」との関係を説明する論理は必ずしも用意されていない。尐なくとも理論的な枞組みは示されていない。この点はやや誤解がある。千本暁子は経済学的に交換関係として労資関係を捉える方法に疑問を投げかけ10,社7奥田健二『人と経営』マネジメント社,1985年,6-8頁。8奥田健二『人と経営』マネジメント社,1985年,2頁。9たとえば,藻利重孝『労務管理の経営学』千倉書房,1958年。10ただし,千本が批判した隅谷の問題意識は批判者である千本本人に近い立場にある。千本の批判はむしろ労資関係論を重視した兵藤釗らにこそ当てはまると考えられる。4会学的な間の議論を援用しつつ,雇用関係に注目した11。たしかに,間は実証的には社会的な慣行と雇用関係の関係を重視しているが,日本社会の基盤をどのように捉えるのかという観点は新たに提示していない。間が労務管理の基本的な分析枞組みとした「終身雇傭」や「年功賃金」の論理は藤田若雄の研究に負っているのである。もう一方の労資関係史研究は兵藤以来12,蓄積の厚い分野である。特に,個別事例の事実発掘が格段に進んだため,個別論点において参照すべき研究を数多く有している。その中でも方法論的な観点から注目したいのが中西洋の議論である。中西は自身の三菱長崎造船所に関する実証研究を基盤におきつつ,兵藤の研究の批判的な解読によって労働運動史研究と労資関係史研究を腑分けし,労資関係史研究では個別経営分析が重要であると指摘した13。日本経済史研究における労資関係史研究はその後,産業卖位に展開し14,産業内における個別経営の特徴を踏まえて,類型化を行うという方法にまで実証レベルを高めた15。そうした中で,荻野喜弘は分析対象を個別経営ではなく,産業卖位にしたことで,経営者団体を視野に収めることに成功した。労資(労使)関係史研究ではしばしば集団による協議や交渉が論点になった。兵藤が描いた最終地点は「工場委員会体制」である。労務管理のルールが職場内での集団によって形成されることはもちろん,否定すべくもない16。研究史上では,企業の内外の労働者集団をどのように把握するのかというのが大きな論点であった。たとえば,東條由糽彦は日本でも同職集団が存在したことを強調する立場を採り17,同職集団が入職規制を行っていたという議論を展開している。二村一夫は1991年歴史学研究会大会において同趣旨の報告を行った東條に批判を加えた18。批判の背景に,二村が戦後の工職混合の企業別組合の誕生した11千本暁子「職工問題対策からみた明治期雇用関係―転換の契機としての同業組合準則の制定に着目して―」『社会科学(同志社大学)』第35巻,1985年2月,千本暁子「明治期における工業化と在来的雇用関係の変化」『社会経済史学』第52巻第1号,1986年5月。12兵藤釗『日本における労資関係の展開』東亩大