为发奋创业的您助威加油

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为发奋创业的您助威加油!心しん機き一いっ転てんの起き業ぎょうにエえーールる!新年好!当您收到这一期《天天好日》的时候,想必元旦喜庆、热闹的气氛已经冷却了。而今年的春节是2月9日,对于等着过春节的您来说,或许“新年”还在后头呢!不管怎么说,新的一年又开始了。在你们当中,会不会有这样的人呢:发誓要在今年,让长久以来怀抱的梦想得以实现!因此,为了给那些志在创业的归国者们声援助威,我们在新年第一期里,采访了一位早先回到日本、经营着一家小小的中餐馆的归国者,请他谈一谈他的亲身经历。敬请您阅读下面这篇《属于你我的天天好日》。主人公的“不要多么大的成功,对自己来说,活得满足才是最重要的”这句话,深深地印在了我们的脑海之中。另外,为了便于您参考,我们在本期还给大家介绍一些开餐饮店所必备的许可证等知识,敬望同览。明あけましておめでとうございます。この号ごうがお手て元もとに届とどく頃ころにはもうお正しょう月がつ気き分ぶんも抜ぬけているかと思おもいますが、今こ年としの旧きゅう正しょう月がつ(春しゅん節せつ)は2月がつ9日ここのかですので、春しゅん節せつを祝いわう方かたにとっては新しん年ねんはこれからですね。どちらにしても年としの初はじめです。今こ年としこそは長なが年ねん温あたためてきた希き望ぼうを実じつ現げんさせようという誓ちかいを新あらたにされている方かたもいらっしゃるのではないでしょうか。そこで、新しん年ねんにちなんでこの号ごうでは、起き業ぎょうを志こころざす帰き国こく者しゃの方かた々がたに声せい援えんを送おくるべく、小ちいさな中ちゅう華か料りょう理り店てんを経けい営えいされてきた、ある先せん輩ぱい帰き国こく者しゃの体たい験けん談だんを聞きかせていただききました。次じ頁ぺーじの「この人ひとの天てん天てん好こう日じつ」を是ぜ非ひお読よみ下ください。「大おおきな成せい功こうでなくてもいい、自じ分ぶんにとって満まん足ぞくできる生いき方かたが大たい切せつ」という言こと葉ばが大たい変へん印いん象しょう的てきです。また、参さん考こうまでに飲いん食しょく店てん開かい業ぎょうに必ひつ要ような免めん許きょなどについてもご紹しょう介かいしていますので、併あわせてご覧らん下ください。目录/目次为发奋创业的您助威加油!/心機一転の起業にエール!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1属于你我的天天好日/この人の天天好日・2~5谨贺新年/謹賀新年・・・・・・・・・・・・・・・・・・3餐饮店开业小知识/飲食店開業ミニ知識・・6~7健康商谈室・骨质疏松症②/健康相談室・骨粗しょう症②・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8~10新闻话语《冬恋》与“勇公子”/ニュースの言葉「冬ソナ」と「ヨン様」・・・・・・・・・・・・・・・11天天好日问卷调查结果/天天好日アンケートの結果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12~14新闻摘要(2004年10月26日~12月15日)15《岁时》天干地支/《歳時》十干十二支・16~17编后记/編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・18属于你我的天天好日この人ひとの天てん天てん好こう日じつ前年,东京近郊的一个小小的台湾菜馆,在一片惋惜声中,走完了它15年半的历程。虽说是台湾菜馆,可经营这家菜馆的,却是一名出身于中国东北的第二代中国残留妇人之子、54岁的I先生。那是一个坐上十人就满的狭小菜馆,可它的生意却十分兴隆。小店外,常常可以看到排着队等座位的客人。菜单上的菜名虽然不多,但价格便宜、量也大;最吸引顾客的,还是I先生烹饪的、那从东北式豁达、慷慨的大手笔下脱胎换骨出来的、有着独特风味儿的台湾菜。外加夫妻二人朴实自然、热忱亲切的待人态度,也是这家小店吸引了许多回头客的理由之一。I先生拒绝过所有信息期刊的采访,在网络信息不像今天这么泛滥的十多年前,众多的客人就是像我这样,漫步在街头的时候,偶然发现这么一家小店的;要不就是通过耳闻口问,找上门来的客人。那时,“为什么要拒绝信息期刊的采访呢?那不是可以让更多的人知道吗?”我曾经问过I先生这个问题。“现在这个样子我已经满足了,因为我并不想把它弄得更大。”他这样回答。“达者谋势权;隆商思倍利”这是世间常情。然而I先生却与众不同。50岁刚刚过,在远远可以继续干一番事业的时候,I先生却毅然决然地关闭了自己的小店。虽说这是因为要给妻子治疗慢性疾病而必须长期回中国,然而,在此次采访中,我才明白了,能这么做,其实正是I先生豁达的人生观使然。〔接第3页下文〕一いっ昨さく年ねん、東とう京きょう近きん郊こうで小ちいさな台たい湾わん料りょう理り店てんが惜おしまれつつ15年ねん半はんの歴れき史しに幕まくを閉とじた。台たい湾わん料りょう理りの店みせではあったが、妻つまと2人ふたりでこの店みせを切きり盛もりしていたのは、中ちゅう国ごく東とう北ほく地ち方ほう出しゅっ身しんの中ちゅう国ごく残ざん留りゅう婦ふ人じん2世せいのIあいさん(54歳さい)だった。10人にんも入はいれば満まん員いんになる狭せまい店みせは常つねに賑にぎわっており、外そとで客きゃくが順じゅん番ばんを待まつこともしばしばだった。品しな数かずは多おおくはなかったが、安やすくてボぼリりュゅーームむがあり、何なによりも東とう北ほくの大おおらかさを以もって台たい湾わん料りょう理りを換かん骨こつ奪だっ胎たいしたような独どく特とくの味あじわいがあった。加くわえてIあいさん夫ふ妻さいの飾かざらない温あたたかい客きゃくへの応おう対たいぶりもまた、客きゃくに繰くり返かえし足あしを運はこばせる理り由ゆうの一ひとつだった。Iあいさんは情じょう報ほう誌しなどの取しゅ材ざいは全すべて断ことわっており、今いまほどネねッっトと情じょう報ほうが氾はん濫らんしていなかった10数すう年ねん前まえのことであるから、客きゃくは私わたしのように歩あるいていてたまたま見みつけた、或あるいは口くちコこミみでやって来きた者ものばかりだった。その頃ころ、「どうして取しゅ材ざいを受うけないんですか?いろんな人ひとに知しってもらえるのに」とIあいさんに尋たずねたことがある。Iあいさんは「今いまのこの店みせで満まん足ぞくしているし、店みせを広ひろげたいとも思おもわないから」と答こたえた。繁はん盛じょうすればより店みせを大おおきくしようと考かんがえるのが世よの常つねだが、Iあいさんは違ちがっていた。50歳さいを過すぎ、まだまだ働はたらける年ねん齢れいで店みせを閉しめてしまったのは、妻つまの慢まん性せい病びょうの治ち療りょうのため長ちょう期き帰き国こくの必ひつ要ようがあったためだったが、Iあいさんのこうした人じん生せい観かんのなせるわざでもあったのだと、今こん回かいの取しゅ材ざいで知しった。[3頁下段に続く]谨贺新年去年九州中心正式成立,支援·交流中心的各项事业也进展顺利。今年,我们将持之以恒地致力于办好有益于大家的信息期刊。敬请各位一如既往给予我们关心和厚爱。中国归国者支援·交流中心所长本田机先近畿中国归国者支援·交流中心所长鹿野幸枝九州归国者支援·交流中心所长田中大介各中心全体教职员◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇在日本的日子I先生在25年前,也就是29岁时,跟随60岁的母亲,携妻子和四个孩子,回到了日本。那时最小的孩子仅仅一岁。他一边在餐厅洗碗打工,一边在职业训练学校拿到了电工执照。之后就职于一家电气工程公司,后因腰伤而辞职。这件事使I先生悟到:身体乃万事之本,没了身体便没了一切,工作也得是能让自己满足的形式。出于这种考虑,I先生下决心开店,并回到以前打过工的台湾菜馆进行了四年的养精蓄锐。之后,又奔赴台湾,再三恳求那里的餐厅允许他无偿地打三个星期的短工,再一次磨练了自己的烹饪技术。但是,即使在中国也没有厨师经验的I先生,起初遭到了妻子及孩子的反对。无可奈何之下,他怀着一个人干的想法,开始在东京四处寻找适合自己开的铺面。在找到价钱合适的铺面以后,I先生便瞒着妻子,取出了两个人多年来的所有积蓄。这虽然激怒了妻子,但不管怎么说,小店还謹きん賀が新しん年ねん昨さく年ねんは九きゅう州しゅうセせンんタたーーも開かい所しょし、支し援えん・交こう流りゅうセせンんタたーーの様さま々ざまな事じ業ぎょうも順じゅん調ちょうに進すすんでおります。今こ年としもみなさんのお役やくに立たつ情じょう報ほう誌し作づくりに努つとめてまいりますので、ご支し援えんご協きょう力りょくの程ほどお願ねがい申もうし上あげます。今こ年とし1年ねんのみなさんのご健けん康こうとご多た幸こうをお祈いのりいたします。中ちゅう国ごく帰き国こく者しゃ支し援えん・交こう流りゅうセせンんタたーー所しょ長ちょう本ほん田だ機き先さき近きん畿き中ちゅう国ごく帰き国こく者しゃ支し援えん・交こう流りゅうセせンんタたーー所しょ長ちょう鹿しか野の幸さち枝え九きゅう州しゅう中ちゅう国ごく帰き国こく者しゃ支し援えん・交こう流りゅうセせンんタたーー所しょ長ちょう田た中なか大だい介すけ各かくセせンんタたーー職しょく員いん一いち同どう◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇日に本ほんでの日ひ々びIあいさんは今いまから25年ねん前まえ29歳さいで、当とう時じ60歳さいの母はは、妻つま、4人にんの子こどもたちととともに帰き国こくした。いちばん下したの子こはまだ1歳さいだった。皿さら洗あらいのアあルるバばイいトとをしながら職しょく業ぎょう訓くん練れん校こうで電でん気き工こう事じ士しの資し格かくをとり、電でん気き工こう事じの会かい社しゃに就しゅう職しょくしたが、腰こしを痛いためてしまって退たい職しょく。このとき、体からだを壊こわしては元もとも子こもない、働はたらくなら自じ分ぶんの満まん足ぞくできる形かたちでと考かんがえて店みせを持もとうと決けっ心しんし、以い前ぜん皿さら洗あらいをしていた台たい湾わん料りょう理り店てんに戻もどって4年ねん間かん修しゅ行ぎょうを積つむ。その後ご、台たい湾わんに赴おもむき、頼たのみ込こんで3週しゅう間かん店みせを手て伝つだわせてもらって技ぎ術じゅつをさらに磨みがく。しかし、中ちゅう国ごくでもコこッっクくの経けい験けんなどないIあいさんのこと、最さい初しょは妻つまも子こどもたちも皆みな反はん対たいした。しかたなく、一人ひとりでや是在1987年开张了。店面非常狭小,几乎所有的座位都是柜台式的,可是,或许是当时水饺还比较少见的缘故,第一天的销售额就达到了4万日元。没有任何宣传,可足足两个星期,不见断过客人。看到这种景象,原来持反对态度的妻子也下决心辞去原先的工作,投身到这个小店里来了。那以后,小店的销售额也一直保持着稳步上升的趋势,基本上每天都可以达到9~10万日元。有的回头客为了一饱口福,竟然坐上四、五十分钟的电车特意赶过来。最初的时候,即使周日,小店也照样开张营业。只是每到夏天,总要回中国休养个把月。I先生的妻子因为始终适应不了日本的生活节奏而时常感到压抑,夏天回国,也是为了解除她心灵上的这种压力。春去冬来,小店天天开门迎客,直到歇业前的五年,元旦也没有休息过一天。在那之后,在闭店前才在元旦期间休息过五天。知足常乐的人生当我问到I先生其生意兴隆的秘诀时,他这样回答∶首先,总是向客人提供质量相同的、新鲜的食物。作为小店招牌的水饺,哪怕是一次,也不曾用过冷冻的;而日本常见的煎饺子,他干脆不做。菜的品种,只设定在夫妇两人忙得过来的范围内。但是提供香肠(有生产许可证)及酱腌蚬贝等特色菜。为了随时都可以用上新鲜材料,I先生还乘坐每天早上的始发车去筑地市场进货。至于睡眠,由于有着倒头就睡的好习惯,所以一天即使只睡两、三个钟头,也不会觉得困乏;而且来到店里之后,还可以睡上几个小时,所以长期以来就这么过来了。另外就是,视客为宝。对方哪怕只点半个菜,也诚心相待。时时怀着一颗热忱待客的心。在价钱上,不便宜就不受欢迎,因此,尽量压低价格。六个水饺四○○元。每道菜都定在四○○元这个价位上。总之,在自己能感到满足的范围内周转是十分重要的。将店面扩大到超出自己可以控制的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