熊本県立大学环境共生学部

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熊本県立大学環境共生学部紀要第1巻200116-2616大型研究船による海洋研究航海の記録第1回ミレニアム航海・白鳳丸による南太平洋への航海記大和田紘一生態・環境資源学専攻1.はじめに海洋において純学術的基礎研究を目的とする海洋研究所の設立は関係学会による要望によって、日本学術会議において議決され、1962年に東京大学に設置されることになった。はじめは本郷キャンパスの理学部の敷地を借りていたが、1963年から中野区にある東京大学教育学部付属中学校・高等学校の敷地(旧制の東京高校の敷地)の一部を譲り受け、建設されたのが現在の東京大学海洋研究所のはじめである。私は1965年3月に東京大学農学部水産学科を卒業したが、学生の時から海洋研究所には大きな研究船が建造され、広い太平洋でいろいろな海洋学分野の研究が展開されるらしいという噂のようなものがあり、いつも気になっていた。実際、私の1年先輩の2人が1964年4月からまだ出来たばかりのプランクトン部門に大学院生として入り、淡青丸という250トンの研究船で航海していることが聞こえてきた。私は修士課程の初めは農学部の海洋研究室で海藻研究が専門の新崎盛敏教授の大学院生になったが、海洋研究所の方にはこれから海洋微生物部門が設立されると聞き、当時はまだ助教授であった多賀信夫先生にもお願いをし、新崎先生の了解を得て1965年6月頃からは海洋研究所の方で研究を進めることにさせていただいた。その後、1969年5月に博士課程の中途で大学院を退学して海洋微生物部門の助手に採用され、2001年3月でその研究室の教授を辞職して熊本県立大學に移るまでの間、水産庁養殖研究所に勤めた7年間(1979年3月-1986年3月)を除いては29年間をこの研究所で、過ごしたことになる。その間に海洋の微生物に関するいろいろな研究を行い、また研究航海にも積極的に参加してきた。そこで、これまでの研究や、特に航海中の船内生活や外国に寄港中に楽しんだことなど、思い出すままに書いて記録として残しておきたい。最初に紹介するのが、私にとっては海洋研究所での最後の航海に当たる南太平洋への航海というのもおかしなものであるが、まだ記憶に一番良く残っているので、これから始めることにする。大和田紘一:大型研究船による海洋研究航海の記録172.航海の概略海洋研究所は全国の共同利用研究所である。そのためここに所属する研究船の白鳳丸(4000トン)と淡青丸(650トン)は全国の海洋研究者が毎年応募して利用することが出来る。海洋物理、海洋化学、地学、海洋生物学、水産学の5分野があって、3年毎にシンポジウムを開催して、全国の研究者がどこでどんな研究をしたいか集約し、分野間の航海日数を調整し、また分野間で手持ちの航海日数を出し合って航海計画を立てるという、非常に民主的な運営システムがとられている。西暦2000年を迎えて白鳳丸の最初の研究航海は、1月14日(金)午後2時に多くの方々に見送られながら晴海埠頭を静かに57日間の航海に出発した。南半球に向かって南下していく航海で東京湾を出るとすぐ冬の北半球それも北緯35°(以下35°N)付近からスタートすることになるので、海況が静穏であること、少なくとも冬の季節風が吹き荒れるようにはならないことを祈りながらの出発だった。幸い1月中旬にしては穏やかではあったが、まだ船に慣れていない若い学生やあまり船に強くない人たちには最初の数日間は多少厳しかったと思われる。それでも低緯度の熱帯域にまで行けば鏡のように静かな海になりますよと励ましてきたが、なかなかそのような静かな海がやってこないのには困った。最初の観測点である30°N(北緯30度)まで航走する間は、船内の各実験室の整理、サンプリングの準備、初めての乗船者は大学院学生も多く観測機器室の蓮本さんや各グループの責任者から作業の手順に関するレッスンを受けたり、とても忙しい。本航海は「西部太平洋における海洋生物群集の生態および多様性に関する研究」という研究主題のもとに、全国の大学の主に海洋生物および水産資源研究分野の研究者で構成された航海で、研究者35名、船員40名が乗っている。研究は微生物、植物プランクトン、動物プランクトン、マイクロネクトン、外洋性稚仔魚、底生生物からウナギ類にいたる広い範囲の生物群を対象に西部太平洋における生態やその多様性を調べることを目的としたもので、2Leg後半にはスラウェシ海やスルー海という日本の研究者がまだあまり入っていない興味深い海域でのサンプリングもあって、大きな期待と興味を持って企画された航海である。1Leg(東京を出発してから最初の寄港地のブリスベーンまで、図1)は30°Nから25°Sまで緯度で5°間隔に観測点を設けて様々なサンプリングを行った。一例を挙げると、微生物グループは各深度からCTD+キャローセル(下ろしていきながらリアルタイムで環境因子を船上に送ってくるセンサーと24個の採水器が付いた装置)に無菌採水のためのニスキンバタフライ採水器を8個取り付けて(写真1)海水試料を採取し、培養法を用いて得られた海洋細菌の分類学的検討や低温環境に適応した好冷細菌株や青色の光を発する発光細菌株の収集、また一方では、水中の細菌を孔径0.2μmの濾紙を用いて大量の海水から濃縮し、培養法を使わずに直接遺伝子を抽出、PCRによる増幅をしてDNAのシークエンスから微生物群集を解析する新しい方法などが主な研究内容でした。植物プランクトン、動物プランクトン、マイクロネクトン、外洋性稚仔魚熊本県立大学環境共生学部紀要第1巻18類についても同じような観測点で各種のネットや採水法を用いてサンプリングが行われた。ウナギの研究グループはこれまでにすでに白鳳丸を使った航海を8回も行ってきていて、日本ウナギの産卵場を見つけたり、その付近で多くのレプトセファルス幼生を採集した実績を持っており、今回も21°Nから始めて、南下しながら1Legの間にも32の測点でネットサンプリングを行い、日本ウナギのみならず、南太平洋産のウナギにも研究の範囲を広げている。底生生物(ベントス)グループはマルチプルコアラーを用いて6観測点において堆積物コアを採取し、有孔虫などの分布を調べ、またその飼育などを試みるような研究内容だった。2Legはオーストラリアのブリスベーンを出て、25°Sから北上してニューギニア島とニューブリテン島の間を通過し、ニューギニア島の北側を西に向かって熱帯の海を航行し、スラウェシ海、スルー海で集中的にサンプリングを行った。ブリスベーンを出港して初めの数日間は海況が悪いこともあって、深海域でのビームトロールによる底性生物の採集には失敗してしまったが、その後は順調にサンプリングが行われた。プランクトングループは開閉装置の付いたモックネスという定量性の高いネット(写真2)も加えてサンプリングを行った。ネットは電気信号の送れるケーブルを用いて曳航し、環境要因やネットの深度、傾き、濾水量などの情報をリアルタイムで船上のモニター画面に表示されるので、曳航深度を一定に保つため、その都度ウィンチマンにワイヤの長さや巻き取り速度を指令して、サンプリングを行うことが出来る。また8個の開閉装置を使って途中の深度からの生物試料の混入を防ぐことが出来るので、動物プランクトンやマイクロネクトンの昼夜での垂直移動や生息深度を正確に調べることが出来る。ウナギグループはインドネシアの200マイル排他的経済水域に入ってからもさらにレプトセファルス幼生の採集を続けた。途中で後に述べるように、急病の研究者を下船させるための緊急入港のため、大事な海域での調査を多少はスキップせざるを得なかったものの、スラウェシ海以降はそれまでと同様にサンプリングは行い、総計65の観測点をカバーすることが出来た。ニューギニア島の北側の鏡のような海(写真3)の上を17ノットのスピードで西航している時のさわやかさと、飛び魚が本船の両側から飛び立った時にそれまでは全く静かで池のように静穏な水面が飛び魚によるしぶきのためにその進行方向の海面に次々と輪が広がっていく模様の美しさは何とも言えなかった。スラウェシ海はインドネシアのスラウェシ島、ボルネオ島とフィリピンのミンダナオ島などに囲まれた海域で、スルー海は西側はボルネオ島、東側はミンダナオ島やビサヤ諸島、北側はパラワン島、南側はスルー諸島によって囲まれた海域である。スラウェシ海は東側と南西側が開かれているので海水の交換は活発に行われているのに対して、スルー海は上に示した島々に囲まれ、さらにその島と島の間も南側は特に非常に浅くなっていて、海水は北側の南シナ海のごく浅い場所から出入りが行われているのみという全く閉鎖された面白い海域である。そのため水温は水深600mから5000mに至るまで全く一様で約10℃と他の海域では考えられない分布を示している(図2)。大和田紘一:大型研究船による海洋研究航海の記録19この強い閉鎖性あり水深も5000mとかなり深いこともあって、生物の多様性を研究する場として世界中の研究者から注目されている場所である。20年以上前に調べて以来久々に、スラウェシ海とスルー海を対照させながら様々な採集器具を用いて生物群集を調べることができた。3Legはフィリピンからほとんど一直線に東京に向った。1、2Legとは異なり、フィリピンの島々の間を抜けて太平洋に出たととたんに冬の季節風による大きなうねりが次々とやってきた。田中船長はフィリピンから東京に戻る時の季節風のことを非常に心配し、すでに1Legの時から船に送られてくるこの付近の気圧配置図を丹念に集めて研究をしていた。ひどい時化に襲われると、ほとんど走れなくなってしまうため、予定通りに東京港に帰れない。冬の北太平洋の厳しさを実感した次第である。田中船長はこの航海が最後で長い航海士生活から引退されるが、白鳳丸は来年も冬にインド洋に出かけ、丁度2月後半の季節風の厳しい時期に同じ海域を通過すると、来年度の船長のためにも気圧配置図とこの記録を残しているのである。3Legでは研究時間はほとんどなかったものの、黒潮に乗って日本周辺に接岸してくる日本ウナギの稚魚の採集を目的に何度かネット採集を行なった。このようにして白鳳丸は予定通り東京港港外に3月9日夜に到着した。この夜は最後の打ち上げ式も盛大で、長かった研究航海を思い出しながら、皆で思いっきり酒を飲んだ。3.本航海を通じての苦労話(1)200海里排他的経済水域内での研究許可の取得国連海洋法が批准され、200海里の排他的経済水域内での海洋観測をする場合には少なくとも1年くらい前には外務省を通じて関係国にはかなり詳しい研究計画を送り、6ヶ月以前に研究許可を取らなければいけない。この申請書には各国の200海里に入る日時と出る日時、さらにどのような機器を用いた研究を行うのかなど全ての項目をきちんと書き込む必要がある。今回は1、2Legを通じて関係国が10ヶ国にも上ったためかなり早くからこの準備を始めた。幸い多くの国からは許可が得られたが、航海に出発する直前になっても許可の取れない国が3ヶ国ほどあって、航海の責任者としては年末の頃から眠れない日が続いていた。その中では特にフィリピンには2Legの後にセブ市に寄港する予定もあるのに、研究者全員の研究許可のみならず入国のビザも取れない状態が出港の前日まで続き、私は毎日毎日フィリピン大使館にビザ発給のお願いの電話を何度もかけざるを得なかった。マニラの日本大使館もいろいろと動いてくれた結果、出港の前日の夜に何とか解決することができたが、本当にどうしようかとつらい日の連続だった。丁度この頃、フィリピンには日本から違法にゴミを送りつける事件が報道されていたので、このためもあったのかも知れない。また、後で分かったことでは、我々の研究計画を受けてフィリピン政府は自国の研究者を是非参加させたいと、共同研究のできそうな研究者を探していたことが日本大使館からの連絡熊本県立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