何故、太宰治は芥川賞を取れなかったのですか?わかる範囲内でよいので教えて下さ...noutenki2005さん何故、太宰治は芥川賞を取れなかったのですか?わかる範囲内でよいので教えて下さい。芥川賞にまつわる出来事[編集]太宰治騒動太宰治は第1回のときに候補となり、本人も受賞を熱望し、当時の選考委員川端康成や佐藤春夫に書面を送った。しかしながら受賞に至らず、選考委員を公で非難し、選考委員との論争になった。その後も、太宰が芥川賞を受賞することはなかった(第3回までは一度候補に挙がった作家は二度と候補に挙げないという決まりがあったベストアンサーに選ばれた回答xoow112さん太宰ほど文学賞を欲しがった者も珍しいといわれた太宰でもありました。太宰が芥川賞を熱望したのは確かですが、その理由は、生活苦からの脱却でした。売れない作家と貧乏とはセットのようなもので、川端にしても、売れない時代には、家族三人分の茶碗が二人分しか無くて、川端は食べ終わるのを待っていた時代もありました。貧乏というものを知っている川端が、太宰に同情しなかったのも、太宰の人間性を快く思わなかったためで、作家達には評判も悪く、貧乏故の行動も、その許容範囲を超えていた。因みに、太宰にはこんな話しが残っている。友人から月末迄に返すとの約束で金を借りたが返さない。友人が催促の手紙を書いたところ、奥さんから返事が来た。「太宰はあなたにまでお金を借りて、申し訳なく思いますが、今は当人に連絡も付かず。必ずお返しするよう申しますので、暫くお待ち下さいますよう」とこんな内容の返事が来た。その友人は、文面の要領を得た書き方と、美しい文字とに驚き、感心もしたが、ナンとその手紙を書いたのは太宰本人だったという。絶望するなダザイがいる~太宰治「人間失格」誕生秘話~配役:配役太宰治役:藤本幸広津島美知子役:沙月梨乃エピソード1芥川龍之介になりたい太宰治の憧れは人気作家の芥川龍之介。芥川と同じ東京帝国大学に進学すると、作家気取りで芸者と同棲、ここから太宰の空回りが始まる。実家から勘当を言い渡され、ショックを受けた太宰は心中未遂事件を起こし、相手の女性を死亡させてしまう。昭和10(1935)年、日本最初の文学賞・芥川賞が創設されると、その受賞に執念を燃やす。しかし1回目は、候補者の一人に選ばれるが落選。選考委員の川端康成には作品ではなく、私生活の乱れを指摘されて大喧嘩。3回目に有力候補の一人として太宰の名前が上がると、太宰は、喧嘩を売った川端へ長い手紙をしたため受賞を懇願するが、結果は落選。“芥川になりたい”と肩に力が入れば入るほど、太宰の空回りが続く・・・。エピソード2太宰の決意家庭生活を維持します!健全な家庭生活を維持することが職業作家には必要だと考えるようになっていた太宰は、昭和14(1939)年、石原美知子と結婚。規則正しい執筆生活を続けるようになり、美知子の協力を得て、独特の「一人語り」の文体を確立。「駈け込み訴へ」「走れメロス」「女生徒」などの名作を生み出す。太平洋戦争が始まると、戦時下の暗く辛い時代の中で、人々へのささやかな慰めとして、笑いとユーモアをテーマにした「お伽草紙」を執筆する。戦禍が激しくなると、荷物を避難させるために、普段はペンしか持たない太宰も、美知子と赤ん坊のために自ら大八車を引く。太宰は、プロフェッショナルな職業作家になっただけではなく、家族を守るたくましい男性へと変わったのだった。エピソード3「人間失格」誕生秘話日本の敗戦を境に、太宰は大きな違和感を覚えるようになる。それは戦後、多くの文化人が簡単に民主主義を唱え出したことにあった。太宰は自分を含む日本人が戦争に協力し、その罪の自覚をすることが必要であると主張。「罪を深く自覚する者が謙虚でやさしい人間になれる」と太宰は考えていたからだ。その思いを作品「斜陽」に込めて発表。さらに続けて、これまで犯してきた自分の罪を洗いざらい吐き出す「人間失格」の執筆に取りかかると太宰の生活は激変。家庭を顧みず、愛人を囲って、毎晩、浴びるように酒を飲む。それは太宰が人間の悪や醜さを描くとき、自分が幸せな家庭生活を営んでいてはいけないと考えたからにほかならない。太宰は「罪」を描くために、また「罪」を重ねるという矛盾を繰り返す・・・。昭和23(1948)年5月、「人間失格」全206枚、脱稿。そのおよそ1ヶ月後、太宰は玉川上水に愛人とともに身を投げて帰らぬ人となる参考文献『評伝太宰治』相馬正一・著(津軽書房)『太宰治心の王者』渡部芳紀・著(洋々社)『太宰治大辞典』志村有弘渡部芳紀・編(勉誠出版)『回想の太宰治』津島美知子・著(講談社)『ピカレスク太宰治伝』猪瀬直樹・著(文藝春秋)『桜桃とキリスト』長部日出雄・著(文藝春秋)はじめに―葛西か芥川か1芥川自殺の衝撃2太宰の芥川模倣3芥川と太宰の志賀直哉観4芥川と「わたしのクリスト」5太宰と「わたしのユダ」6お伽噺のパロディー化7敗北宣言と遺書おわりに―悲劇と喜劇太宰治と芥川龍之介[要旨]芥川と太宰の「死」は自裁か誤算か?―二人の天才作家の作品を照合して、双方の類縁を究明する書下ろし長篇評論。道化の文学-太宰治論-(冒頭部分)福田恆存/初出「群像」(昭和23・6~7)一いま太宰治論を書くならば、その心がまへは七年前の芥川龍之介論の続篇をものすつもりであればよい、とぼくのうちにあるかれのイメージが教へてくれる。たしかに太宰は芥川が生涯のをはりに辿りついた地点から出発してゐる――しかもおなじ気質をもつて。が、芥川の到達した終末点が、たんにかれ一個人の特殊な生涯の飽和点を意味せず、一時代の、一性格の、さらには人間存在そのものの、窮極の主題といふものに通じてゐたのであつたとすれば、そこに自己の出発点を見いだすといふことは――いや、もつてまはつたいひかたはやめよう――太宰治は芥川龍之介の生涯と作品系列とを、いはば逆に生きてきたのである。芥川龍之介はその一生のをはりに「或阿呆の一生」と自殺とを置いた。太宰治はその作家活動のはじめに、「歯車」や「或阿呆の一生」にならつて、「葉」や「思ひ出」などを書いてしまつてゐた。そして「その日その日が晩年である」やうなたそがれのうちで、いくたびか自殺をはかり、そのつど「生きよ」と現世につきもどされた――人生を逆に生きるよりほかにしかたはなかつたのである。ぼくは二十冊にあまる太宰治の作品集を読みあさりながら、龍之介論を書いた七年まへの興奮をあらたにすると同時に、そこでぼくが発見し、守りぬかうとした真実を、はたしていまここに超えうるかどうかといふ不安もまた感じてゐる。(続きは書店または図書館にて...)太宰治俺にとって太宰の評価ほど難しいものはない。10代の頃、そのほとんど、習作や書簡も読んでいるし、もしかしたら全ての作品を読んでいるかもしれない。しかし、数年前に『人間失格』を読み返してみたら、そんなに面白いと思わなかったのである。これは、はたして俺の感性が、すこぶる鈍ってしまったのだろうか?そうかもしれない。数年前から、特に俺は何も面白い、と思えず、鬱々とした日々を過ごしているのだから。ただ、『人間失格』の主人公、大庭葉蔵の「恥の多い生涯を送ってきました」という言葉。これには共感が止まない。自分の人生を振り返ると嫌なことばかりで、全てを掻き消したくなるからだ。少なくとも自殺すれば、俺の存在が無くなるわけだから、俺の中からは掻き消すことができる。そして、『二十世紀旗手』のあまりにも有名な「生まれてすみません」がある。俺は、生まれてすまない、と思ったことはありませんが、いつの頃からか「生まれてこなければよかった」という思いに囚われ続けており、つまり【生まれなけば】という思いが、この2つの間には深奥で精通しているように感じてしまうのです。精通といっても男子の初めての射精ではありません。「生まれてこなければよかった」を具現化するには、やはり自殺しかありません。そういえば「生まれてすみません」について、エロいお姉さんが興味深いことを綴っております。木村綾子オフシャルブログ「生まれてすみません」は盗作フレーズだった!?さて、自殺についてである。4回の自殺未遂と、作家になった二人の娘太宰は生涯で、2回の自殺未遂と2回の心中未遂を行っています。20歳のとき鎮静剤カルモチンを多量に飲み、21歳のとき同棲中の小山初代との結納を交わしたわずか4日後、出会って3日のカフェの女給・田部シメ子と鎌倉の海に投身。シメ子だけが死亡します。また26歳の時には芥川賞落選のショックで首つり自殺を図ります。それは未遂に終わりましたが、このときの入院で使用した麻酔剤をきっかけに薬物中毒に。さらにその翌年、薬物中毒の治療入院中に初代の不貞が発覚し、ショックを受けた彼は初代と心中を図ります。この事件後二人は別れました。28歳のとき井伏鱒二の紹介で、石原美知子と見合い結婚。一男二女に恵まれますが、この結婚生活の間にも、「斜陽」のモデルとなった太田静子、そしてともに死を迎えた山崎富栄の二人の女性と関係を持ちます。そして太宰は1948年6月13日に、この富栄と玉川上水に入水。彼らの遺体は、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見されたのです。太宰の4人の子どものうち、美知子との二女里子は「津島佑子」、そして愛人の太田静子の長女治子は「太田治子」として、ともに作家となり現在も活躍しています。(オリコンより抜粋)大地主の息子に生まれ、何不自由のない大金持ちの生活。東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し、女に不自由することもなくハメまくり。文才にも恵まれ売れっ子作家。ちなみに芥川龍之介も東京帝国大学だ。大金持ちの家に生まれてしまった不幸というべきか、太宰は子供の頃から自分は周りから搾取している、と悩み続けた。ダメだ!ここまで綴ってきたというのに、何ひとつ共感できない!太宰は全てを手に入れているではないか!太宰は持たざる者ではない!不幸な者でもない!ただのしみったれたナルシストだ!持たざる者の哀しみなど太宰には無い!芥川龍之介もそうだ!芥川も太宰も所詮、人生の成功者が戯れの戯れ言で、自殺という媚薬と危険なダンスを踊っただけではないか!すいません。少し落ち着きます。俺の拙い文章のせいで、誤解を与えてしまったかもしれません。俺は何も物質的な充実だけを言っているのではないのです。もちろん、心の充実も必要です。しかし、芥川や太宰の環境から、自殺に至るほど、心の充実が欠けているとは到底思えないのです。物質的な充実、及び心の充実、両方、完膚無きまでに欠けている俺のような切迫感がどうしても感じられないのです。俺のような凡人には計り知れない、心の闇があるのかもしれませんが、どうしても、俺のような不幸を芥川と太宰に感じることができないのです。そういった意味において、共感できるのは西郷隆盛だけです。西郷の絶望も、そして自殺も、あまりに純粋で美し過ぎるくらいに真摯だ。自殺する資格自殺するには資格があると思う。かつて綴ったものを再録しよう。自己破壊本能、つまりは自殺だが、ある程度、世界を知った上での判断であれば、自らの命を絶つ自由というのもあるのではないか。もちろん小学生とか中学生とか高校生とかの、いじめられての自殺は駄目だ。何故ならそれは、あまりにも小さな世界しか知らない上での、年端も行かぬ未熟な判断でしかないからだ。そういった意味で、自らの命を絶つ自由は、やはり30歳位が目安だろうか。芸能界でもそうだが、エスタブリッシュメントとして、この国を動かしている人にも、学生時代にいじめられて自殺を考えた人たちが少なくない。しかし、その時、自殺しないで生きたからこそ、現在、幸せを手にし、自殺しないで良かった、と思っている人たちが存在するのである。だから俺は自殺の目安を30歳位としたのである。30歳位なら、それなりに世界を知り、その上での決断になるからだ。何故、俺は未だに自殺しないのか素朴な疑問なのである。「死にたい」と常に俺の心が叫んでいるのに、何故、俺は